拍手お礼SS(記念日編・8月)

 

1:

 今、ぼくの手の中にはワインレッドのビキニパンツがある。
 ぼくのものではないけど、かと言って人に言えない手段を使って手に入れたものでもない。
 ……っていうか、人に言えない手段ってなんだよ。
 この前の雨の日、御剣の家にあった買い置きを借りた。それだけのこと。
 例えば、これがハンカチやタオルだったとしよう。
 キレイに洗って返す、それが当然の礼儀だろう。
 それがワイシャツなんかでも、同じことだ。

「……でも」
 パンツ……なんだよなあ。
 ハンカチでもタオルでもシャツでもなく、パンツ。
 いくらキレイにしたからって、返すべきものなんだろうか。

 まてよ。逆だったらどうだろうか。
 ぼくが御剣に買い置きのパンツを貸したとして、御剣にそれをどうしてほしい?
 返して欲しいか、そうじゃないか。
 本音を言えば返してくれたら、ええと、うれしいというかなんというか。
 間違いなく使っちゃうだろうなあ。その、性的な意味で……
 って、まてまて、それはない!人としてそれはまずい!
 自分の思考回路に心底嫌気が差して、一瞬で却下する。

 よし、決めた。返さないで持っていよう。
 履いたのはぼくひとり、しかも一度きり。
 持っていても別に悪いことはないはずだ……よね!?

 それにしても、本当に馴染みがなさすぎて
 こうして持っているだけでも妙な気持ちになりそうで怖い。
「やっぱり、返すか……?」
 呟いてすぐに首を横に振った。
 ……イヤイヤ、九分九厘間違いなく突き返されるだけだ。

 堂々巡り過ぎてどうしようもなくて、頭を抱える。
 たかだかパンツごときで知恵熱くらい出てしまいそうな勢いだ。
 これ以上悩むことがないように、いっそ捨てちゃうか?
 いや、でも捨てられない!

 結局ぼくはキレイに畳んだすべすべの布きれを、
 ビニール袋に入れてぎゅっと口を縛り、箪笥の奥深くに封印した。

 ……結局、傍から見たら変態っぽいなぁ。
 これは御剣にはとてもじゃないけど言えない。
 ぼくだけの心の中に、そーっと仕舞っておこう。

《8月2日 パンツの日》
あまりにも可哀想な子になったんで、短めで。ごめん。






2:

 終電を逃してタクシーで帰宅することも、最近では珍しくなくなった。
 それも、事務所ナンバーワンのセンパイと若葉マークもいいところのヒヨッコな私が
 なぜだかタッグを組んで仕事をするようになってからだ。

 違う。なぜだか、じゃない。
 私の初法廷で、何が起こったか。そのとき、私の隣に誰がいたか。
 そして、私の隣にいた神乃木荘龍という人間は、どんな性格の持ち主なのか。
 すべてを考えていけば、今の状況はたぶん必然だったんだろう。

 ……そして、一緒に仕事をするだけではなくなった私たちふたりのことも、
 きっと必然だったのだと、そう思っていたい。

 カーステレオの抑え目の雑音と、時折響くウインカーの乾いた音が
 疲労と眠気で朦朧とする頭の中に入って、そして出てゆく。
 こっくりこっくりと船を漕いでは、隣に座っているセンパイの肩に頭をぶつけ、
 はっと気がついて身体を起こす、その繰り返しだった。
「……コネコちゃん、眠いなら寝ておきな。着いたら起こしてやるから」
「でも、もうすぐ、ですから……起きておけば、だいじょう……」
「大丈夫じゃなさそうだから言ってるんだがなぁ」
 ぼやき気味のセンパイも、あくびをかみ殺している。

 途切れ途切れのカーステレオから、DJのトークが聞こえる。
 リスナーからのメール募集、『もしもタイムマシーンがあったら』。

 もしも、タイムマシーンに乗れたなら。
 私は間違いなくあの日に戻って、
 彼が裁判所に姿を現した時点で、帰るように促しただろう。
 ひとりきりの初陣になっても仕方がない。
 もしもあの日のことを覚えたままでもう一度繰り返せるのなら、
 決してあの被告人に毒を飲ませたりなんてしない。
 あの女を、あの場できっちりと追い詰めることが出来る。

 そうできたらいいのに、と、思う。

「……ごめんなさい、巻き込んじゃって」
 心の中で思っていた言葉を、眠さで無防備になっている私はうっかり吐き出してしまったらしい。
 センパイの大きな手が私の頭を鷲掴みにして、ぐりぐりと撫でた。
「いや、オレがしたくてしてる事だ。コネコちゃんが気に病むことじゃないさ」
 唇の片端をにっと上げて、彼が笑う。
 余裕なように見えて、実はけっこう堪えてるときの顔だって、
 ここしばらくでわかるようになってきた。
 本心から言っていることには違いないだろうし、私を労わってくれるその気持ちも真実だ。

 それでも、大切な人にこうして無理を強いているのは辛い。
 タイムマシーンがあればいいのに。
 そうしたら、この人はこんな余計な仕事をしなくても済んだはずだ。

「いいから寝てな、チヒロ。今のアンタは寝不足と疲労で弱っちまってるだけだ」
「……は、い」

 こくりと頷いて、うつらうつらと夢の世界に向かう。
 タイムマシーンを心の片隅に思い浮かべたままで。


 ぼんやりとしたその思いが、命すら失ってもいいと思うほど切実になる日が来るなんて。
 このときにはまだ、夢にも思わなかったけれど。

《8月5日 タクシーの日》







3:

「はい、プレゼント」
「……何のつもりよ、アンタ」
「何って、花をあげに来たんだけど?きみに」

 手にした花束から数本の花を抜き取って、
 目の前のオトコは少しだけ不満げに唇を歪めた。

「あげに来たって、それ、アンタがもらったものでしょうが」
 しかもライブ会場や何かならまだしも、法廷で、開廷前に。
 裁判所をなんだと思ってるのかしらね、アンタのファンとやらはさ。
 ぶつぶつとぼやきながらじっとりとした視線を投げつけると、
 ソイツは目を伏せ肩をすくめて笑った。
 まるで、仕方がないなぁ、とでも言いたそうに。
 キザったらしい仕草に、イライラが募る。

「冷たいな、愛をおすそ分けしようと思ったのに」
「おすそ分けできるほどの安い愛なんていらないわ」
「………」
 ふん、と笑ってみせたら、今まで余裕ぶっこいて笑ってたソイツは
 一瞬驚いたように目を丸くして、それから不意にまじめな顔であたしを見た。

「じゃ、おすそ分けじゃなかったらいいのかい?」
「へ?」
 ……どういう意味?
 首を傾げると、差し出されていた花はひっこめられて、
 花束の中にふたたび押し込まれていた。
「ちょっと、そんな無茶な戻し方しちゃだめじゃないの」
「でも、おすそ分けじゃもらってくれないんだろ?だったら、これ全部きみにあげるから……」
「……あのね」
 いまいちわかってない様子のバカに、きちんと言葉で説明してやる。
「それはアンタがもらったものでしょ?あたしなんかに横流ししていいわけないの!」
 たとえ開廷前にファンが押し付けてきた花束で、
 コイツにとってそれが日常茶飯事だったとしても、だ。
 用意した子はコイツのことを考えていたわけで……そんなもの、もらえるワケない。

「………」
 ふたたび、目を丸くしたソイツと目が合った。
「……なによ」
「もしかして、きみ、妬いてるの?」
「んなッ!!?」
 そんな訳ないでしょう!!バカじゃないの!?
 がーっと噛み付くような勢いで食って掛かっても、まるで効果はなくて
 さわやかにうれしそうに笑うソイツに、キレイに受け流される。
「なんだ、じゃあ今度ちゃんと、きみのために花を選んで持ってくるよ」
 それならもらってくれるよね?とニコニコ笑われると、
 あたしにはもう肯定する以外の道は残されていない。
 ああ、こいつの笑顔を前にすると、なんでこう逆らえなくなっちゃうわけ!?

「……仕方ないわね、それなら断る理由はないわ」
 精一杯不機嫌モードで言い放つと、あたしはぷいと踵を返した。

 まあ、どんな花を選ぶのか、興味がなくはないからね。
 お寒い花言葉なんて添えてきた日にはぶっ飛ばしてあげるから、覚悟しなさいよ。

《8月7日 花の日》







4:

 相変わらずの暑さにぐったりしながらなるほどくんを扇風機を取り合っていると、
 不意に事務所のドアが開いて、ヤッパリさんが顔を出した。
「よー、成歩堂、真宵ちゃん。邪魔するぜ」
「なにしに来たんだよ、見てのとおりここは涼しくないぞ」
「いや、別に涼を求めて来たんじゃねェから」
 そう言いながらも、あたしたちの側に来て扇風機の恩恵にはあずかろうとしてるあたり、
 ヤッパリさんはヤッパリさんだなぁって感じ。
「やー、夏は扇風機とアイスよなァ、やっぱ」
 右手にぶら下げてたコンビニ袋からアイスの袋を取り出して、ばりっと封を破ってる。
 アイスはちょうど今食べたいなって思ってたところだったから、
 どうしてもヤッパリさんの手元に視線が釘付けになっちゃう。
「あ、いいなー」
「おー、じゃ、半分こな」
「え、いいんですか!?」
 ひょいっと手渡された半分のパピコに、思わず笑みがこぼれた。
 ぱき、と吸い口を折って、見慣れないオレンジ色の中身をちゅーちゅーと吸い上げる。
 わ、オレンジ味。パピコっていったらチョココーヒーしか食べたことないから、
 珍しくておいしくて顔がにやける。
「おいしー!」
「だろ!」
「……ぼくにはないのかよ」
「あ?オトコにまで土産買って来る余裕はねえよ、オレには」
「……あ、そ」
 だるそうに声をかけてきたなるほどくんが、やっぱりだるそうに退散していった。
 そういえば、今日は外出だって言ってたっけ。
 手を離してじゅーじゅーと中身を吸いながら、暑い中お疲れ様だなぁ、なんて思ったり。
 あたしはカゲの所長だから、ここでどーんと構えてればいいんだよね、うん。

 ぶるぶると首を振る扇風機と、外から聞こえる蝉時雨と、のどを通るアイスの冷たさ。
 うーん、夏だね!
 ひとあし先にパピコを食べ終わったヤッパリさんが、ソファに足を投げ出してうーんと伸びをした。
「……なァ、真宵ちゃん」
「なんですか?」
「アイスおごったから、ってワケでもねぇんだけど……バイト、しねえ?」
「ば、バイト?」
 突拍子もない発言に、思わず腰が引ける。
「や、別に怪しいもんじゃねぇよ。ただ、浴衣着て夏祭り行って、そこでモデルになってくれりゃいいからさ」
「モデル、ですか…」
「おう。写真取らしてもらって、それを元に絵を描く。そんだけ」
「……ふーん……」
 ちょっとだけ、頭の中でシュミレーションしてみる。
 どんな絵に仕上がるのかはともかく、興味がなくはない。
 年頃のオンナノコとして、モデルにならないか、って言われて、
 悪い気がしないのはトーゼンだと思う。

「いいですよ、で、いつ?」
「それが、実は……今夜なんだけど」
「今夜!」
「ゴメンなァ、予定、あった?」
「ない、けど……浴衣なんて、そんな急には……」
 倉院にはあるけれど、行って戻ってたら、それこそ夜も更けてしまう。
「ダイジョーブ!それくらい用意してやれるカイショーくらい、あるからよ!」
 とん、とヤッパリさんが胸を叩いた。
「え、じゃ、買ってくれるんですか!」
「おう、そんなイイものはムリだけどな」
「あとあと、たこ焼きと焼きそばと、りんごあめもつけてくれますか?」
「……お、おう!」
「……あの、ウラ、ないですよね?」
「ば、そんなんねぇって!大丈夫ダイジョーブ!!」

 まかせなさい、とふたたび叩かれた胸を見ながら、
 ま、言ってもヤッパリさんだし、なんかあったらあたしにでもどうとでもできるかななんて、
 なるほどくんに知られたら卒倒しそうなことを考えてみたりした。

 ……まあね。夏、だからね。

《8月10日 バイトの日》






5:

 小さな女の子なんて、今まで春美ちゃんを相手にしていて慣れていると思っていた。
 でも、彼女とムスメは決定的に違う。
 別人だとかそういうことじゃなくって……いやそれも勿論あるんだけど。

 ムスメとは四六時中一緒にいるもんだってことを、ぼくはちょっとだけ失念していた。

 今、ぼくの傍らには、ソファをふたつ組み合わせた簡易ベッドの中で丸まって
 くうくうと小さな寝息を立てているみぬきがいる。
 大きなTシャツからこども特有の細い手足をのぞかせて、無邪気に眠る表情は
 ……なんだ、その。親としての贔屓目抜きで、ものすごくかわいい。
 いや、ぼくの遺伝子を継いだ子供じゃないんだけど、それでも、だ。

 薄暗く落とした照明の中、そんなかわいい愛娘の寝顔をただ眺める。
 こんなかわいいムスメと四六時中一緒にいたら、手放すのが大変かもしれない。
 ……もう、かもしれない、じゃないな。絶対に大変だ。

 春美ちゃんが家元になった真宵ちゃんについて倉院へ戻ると言った時、
 ぼくは「寂しくなるけれど仕方がないな」って思った。
 それが彼女たちの人生だし、ぼくがどうこう言える立場でもない。
 真宵ちゃんとは2年半、春美ちゃんとも2年近く。それだけの年月一緒にいて、
 離れるのが寂しいな、と思うくらいに情を抱いていたのは確かだけれど、
 それでも、ぼくはそれをあっさりと受け入れることが出来た。

 でもみぬきとは四六時中一緒にいて、いろんな顔を見ている。
 まだほんのコドモの彼女は、きっとこれからどんどん成長していく。
 それをいつまでこうしてそばで見ていられるだろうか。
 みぬきのことを思えば、一日も早くザックさんが迎えに来たほうがいいに決まってる。
 でもそんな日なんて来て欲しくないとさえ、ぼくはすでに思いはじめている。

 朝、ぼくのタオルケットを引き剥がして起こす時のちょっと怒った顔。
 目玉焼きを失敗して、唇をへの字に曲げた泣きそうな顔。
 一緒に外に出かけると、ぼくの手をぎゅっと握って振り回す笑顔。
 お風呂で律儀に数を数えているときの、真っ赤に染まったほっぺ。
 時々肩をたたいてくれる、ちいさなにぎりこぶし。
 屈託なくだいすきと言ってくれる、まぶしい笑顔。
 それらすべてが、ぼくにとってなにものにも代えがたい宝物だ。

 みぬきはいろいろなモノを失ったぼくのそばにいてくれて、
 ぼくに生きる活力をくれた。
 ぼくが彼女に何かを返せるとしたら、
 彼女の親として、立派に彼女を育て上げることくらいだろう。
 楽しいばかりじゃない。大変なことだってきっとある。
 今はまだよくても、オトコだけじゃどうしようもないような事態に、
 頭を抱えるようなことだって待っているだろう。

 もしも、もしもザックさんが迎えに来なかったとしても。
 それでも、彼女がムスメである以上、ぼくは彼女を手放さなければいけない日が来る。
 手塩にかけて育てれば育てるほど、その日が辛くなるんだろうか。

 ああ、生まれたときからお嫁に行く日を想像して泣いちゃうなんて話、
 よく聞いてはいたけど……馬鹿にしちゃいけなかったな。

 今はまだ無邪気な寝顔をみつめながら、ぼくはちょっとだけ鼻をすすった。

《8月12日 育児の日》

 




6:

 甘いことばも優しい視線も、ひとたび裁きの庭へと足を踏み入れれば一切封印。
 つい数時間前の甘い時間が嘘のように、しゃんと伸びた背筋と張りのある声、
 厳しく射抜くような視線。真っ直ぐに指し示す指は、真実だけを目指す。
 それはぼくもあいつも同じで、だからこそ安心して思うままに飛び込んでいける、
 そんな安心感は、ほかの検事が相手の裁判ではなかなか得られない。

 ふたりでひとつ、とまで言うほどのロマンチストじゃないつもりだけれど、
 それでもぼくのパートナーは、あらゆる意味で御剣しかありえない。
 この先の人生を謳歌するためにも、
 ぼくがぼくであるという存在価値を常に再認識するためにも。
 それは今だけじゃなくって、今後一生のこと。

 そんなことを、ぼくは本気で考えている。
 そして、それをどうやって御剣に伝えたらいいのかなってことも。
 伝え方を間違うと、鼻で笑われるか怒って帰っちゃうかのどっちかだ。


 ぼくたちは、あんまり似ていない。
 強いて似てるところをあげるとすればインドア派、ってくらいで、
 それだって過ごし方を考えたら相当方向性が違う。
 ゲームのコントローラーを握ってCPU相手に格闘してるぼくと、
 CDプレイヤーの前でゆったりソファに腰掛けてる御剣。
 お互いの音が邪魔になるから、同じ部屋にはいられない。

 食事の時間になればなったで、食べたいものが違う。
 うっかり牛丼なんか買って来た日には、物凄い溜息と恨みがましい目が待っている。

 テレビでやってる映画に同時に食指が動くことも、ないわけじゃない。
 だけど、所謂カウチポテトなんてのは御剣の前じゃとてもじゃないけど出来ない。
 みっともないと怒られ、御剣の眉間のシワが増えるだけだ。

 何かの意見が食い違って対立したときなんてひどい。
 法廷さながら、喧々諤々の言い争いに収拾をつけるのは
 決まってぼくのほうだ。ぼくが折れないと、御剣はてこでも動かない。

 ベッドの中ではそれなりにおとなしいけれど、それでも罵倒の声は上がる。
 ま、そういうときの罵倒なんてのは、100%照れ隠しだってわかってるから
 別に気にしたことなんてないけれども。


 ……なんかこうやって羅列していくと、ぼくがものすごく虐げられてるような。
 どんだけMなんだって話になりそうだけど、別にそんなつもりはなくって。
 強いて言うならば、多分、惚れた弱みってやつなんだろう。

 世の中には趣味も性格も休みの日の過ごし方もなにもかもが
 それこそ割れ鍋に綴じ蓋、ってくらいにぴったり合致した
 相性バツグンのカップルがいっぱいいて、
 もちろんそういうカップルに憧れがないわけじゃない。

 でも、だからって、ぼくらの相性が悪いとは思わない。
 なんだかんだ言っても、一緒にいても息が詰まることはない。
 結構頻繁にぶつかり合うけど、無理もしてない。
 お互いがお互いのままいられるっていうのは、実は何より大切だ。

 だから、ぼくのパートナーは、御剣以外にはありえない。

 さて、どうやってこれを伝えたらいいかな。
 ぼくとしては、言葉にしなくても同じ事を感じてくれてたらそれが一番いいなって、
 そう思ってるんだけど。

《8月17日 プラチナパートナーの日》






7:

 こんな仕事をしてると、いつどこに誰といようがイキナリ呼びつけられることも少なくない。
 因果な商売だなあと思うけれど、こればっかりは仕方ない。

 でも、今回はさすがに途方にくれた。
 始発もまだ動いてないような時刻、朝靄に煙る街の中で、
 タクシーもろくろく走ってなくって、一体、どうしろって言うんだろう?
 急がないとは言われたけれど、聞いちゃった以上はそんな訳にもいかない。
 一応こんなあたしでも、職業意識だけは一通り芽生えてきてるわけ。

 やきもきしながら始発を待つしかないか、と諦めて駅舎に足を踏み入れた瞬間、
 忌々しいことに聞き慣れてしまったバイクのエンジン音が背後で響いた。

「……なにしてるの、アンタ」
「朝からご挨拶だね、刑事くん」
 フルフェイスのヘルメットを取ると、牙琉響也が唇を歪めふんと鼻を鳴らした。
「呼び出されたんだよ、キミも同じだろう?」
 起き抜けの寝ぼけ眼に髪も結っていないあたしと違い、
 コイツは朝からなにもかもがさわやかだ。
 もう、ヒトとしてのつくりが違うとしか思えない。
 それとも、ロックスター様は四六時中身だしなみにも気を抜けないってコトだろうか。
「……まあ、それはそうね」
 隠したってしょうがないし、だいたいあたしとコイツを呼び出したのは間違いなく同じ人物だ。

「電車、まだ動いてないだろ?よかったら」
 バイクのエンジンを切ったヤツが、シートの下に隠されていたヘルメットを引っ張り出してきた。
 そしてそれを、ぽんとあたしのほうに投げてよこす。
「乗りなよ。どうせ行き先は一緒だ」
「…………」
 返答も罵倒も忘れて、手の中のヘルメットを眺めた。
 傷ひとつないぴかぴかのヘルメットは、一体誰のために用意されたものなんだろう?
 今は空席のタンデムシートに、コイツは誰を乗せて走りたかったんだろう?

 ……らしくない。
 こんな思考は、あたしらしくない。

「さ、乗って」
 迷っているうちに、強引に手の中のヘルメットが頭に被されてぐいと手を引かれた。
 仕方なくタンデムシートに乗ると、ヤツは満足したようにひとつ頷いて、シートに跨る。
 目の前に広がる大きな背中を、あたしは意外に感じた。
 華奢に見えたけれど、コイツ、結構しっかりした身体してるんだな……

 いつのまにか再びかけられたエンジンの音が、全身を覆う。
 両手で遠慮がちにジャケットの裾をつかむと、いきなり手が伸びてきて腰に手を回された。
「ちょっと!なにして……」
「ぼくじゃ不満かもしれないけど、しっかりつかまってて。じゃないと危ないから」
「わ……かってるわよ」
 腰に回した手と、伝わる体温。
 バイクに乗るんだからこんなの当たり前、いい年して動揺するほうがみっともない。
 そんなことは、わかってるけれど。

 それでもどうしても、鼓動は高く響く。
 慣れないバイクに乗るせいだ、と、あたしはそう思い込んで
 目の前の身体にぎゅうと力いっぱい抱きついた。

《8月19日 バイクの日》






8:

 裁判所の食堂で、なるほどくんとふたりテーブルについて
 あたしはいつもながらのみそラーメン、なるほどくんは冷やし中華をすすっていたら
 こつこつという軽い足音が近づいてきた。
 ふと顔を上げると、かるま検事が食堂のお盆の上に
 オムライスとアイスティーを乗せて、ちょっと困ったような顔をして立っていた。
「あれ、どしたの、かるま検事」
「時間のせいかしらね、席がなくて。そこ、いいかしら」

 ずる、と麺をすすりながらお伺いを立てようとなるほどくんを見ると
(なんせ、このふたりは天敵みたいなもんだ。いろんな意味で)
 トクベツ興味もなさそうに備え付けのテレビにぼーっと視線を注いだままだ。
 そういうふうにしてると老けて見えるからみっともないよって前にも言ったのに、
 忘れてるんだろうなぁ。ま、今はどうでもいいけど。
「うん、いいよ」
「ありがとう、感謝するわ」
 薄く微笑を浮かべたかるま検事はあたしたちの座るテーブルの空いた席に
 お盆を置くと、イスに腰掛けてスプーンに巻かれた紙ナプキンをくるりと剥がした。
 ……うーん、別に何一つおかしなことをしてるわけじゃないのに、
 こういう庶民的な食堂で庶民的な仕草をするかるま検事って、ちょっとフシギ。

 なるほどくんは相変わらずテレビに釘付けだ。
 一体なにをそんなに熱心に、と思ってテレビに視線を投げると、
 画面の中で高校球児が真剣そのものの表情でバットを握り締めていた。
 端っこにある表示は9回裏、点差は1点。
 マウンドに立っている男の子が、唇をぎゅっと噛んだ。
「あー、そっか」
 そういえば、そんなシーズンなんだ。
 あたしとそう年の変わらない子達が、一生懸命戦っている。
 トクベツ野球に興味のないあたしでも、高校野球は嫌いじゃない。
 なんていうんだろう、後のない緊張感とか、そんなのがちょっと法廷と似てるかもしれない。
「お!」
 なるほどくんがびくんと肩を揺らして、オジサンみたいな声を上げた。
 テレビの中で、わあと歓声が上がる。
 まっすぐに伸びた白球は、懸命に走るレフトの横をすり抜けて落下した。
 ホームベースに固定されているカメラの前を、ひとり、ふたりとランナーが横切る。
 そして画面に大きく表示されるスコアと、勝敗。
 サイレンの鳴る中、逆転優勝、というアナウンサーの声が大きく響いていく。
 応援席の女の子が、抱き合って泣いていた。
 うわー、こういうの弱いんだよ。ちょっともらい泣きしそうになっちゃう。
「……すごいね」
「うん、すごいね」
 いつの間にか冷やし中華を食べ終えていたなるほどくんが、満足そうに息を吐いた。

「そうかしら」
 冷ややかな声は、あたしの右隣から響いてきた。
「かるま検事」
「どうせ勝つのなら、パーフェクトゲームくらいじゃないと物足りないわ」
「…それは無理だと思うよ」
 高校野球での完全試合は過去2回しかないんだって、
 どこで知ったのかと思えるような薀蓄をなるほどくんが披露してくれた。
 ふーん、と思ったけど、かるま検事の心には響かなかったらしい。
 涼やかに笑みを浮かべて、ぴんと伸ばした人差し指をゆっくり振った。
「狩魔は常に完璧を持ってよしとするの、それはスポーツでも然り」
 かるま検事が瞳を閉じて、ふん、と鼻で笑う。

 でも、あたしはしっかり見てしまった。
 その閉じた瞳の端っこに、ちょっとだけ光るものがあったことを。

《8月21日 パーフェクトの日》






9:

 目の前で、焼き網がじゅうじゅうと音を立てている。
 ぽかんと見守っている間にも、これが焼けたの食べごろだのと
 どんどんお皿の上にお肉やら野菜やらが乗せられていく。

「あの……センパイ、これは一体」
「夏バテのコネコちゃんにサービス、だぜ」
 そう言ってウインクしたセンパイが、既に山盛りの私のお皿の上に骨付きカルビを乗せた。
 少しでも手をつけないと、収拾がつかなくなってしまう。
 おいしそうな匂いは食欲をそそるけれど、それでもこの量を片付けられるかと言われたら
 それはかなり厳しい。
 私は目の前のお皿からタン塩を引っ張り出して、もぐもぐと咀嚼した。

 ……さて、一体なんでこんなことになったんだっけ。
 話は、今日の昼休みにまで遡る。

 

 体温を超えようかという酷暑に、身体がついていかない。
 どうしようもない倦怠感と戦いながら出勤前に買って冷蔵庫に入れておいた
 ゼリー飲料を取り出していると、ふと目の前をコーヒーの香りが横切った。
 こんな匂いを漂わせるひとなんてのは、一人しかいない。
「センパイ」
「よお」
 この暑いのに愛用のマグカップから湯気をたちのぼらせているのを見ていると、
 さらに体感温度が上がる気がする。
 このひとはどうして平気なんだろうか、皮肉じゃなくて純粋に疑問だ。

「なんだコネコちゃん、昼、それっぽっちなのか」
 手の中の銀色のパックを見咎められ、身体が持たないぞ、と諭される。
「でも、食欲がなくて……」
「そんなんじゃ戦えないぜ、きちんと食って寝て体力つけてかねえと」
 にかっと笑ったセンパイは、私の肩をとんと叩いた。
「夕飯、何か精のつくものでも食べにいくか。奢るぜ」

 

 ……そんなわけで、今、私の目の前では焼き網がいい音を立てているし、
 お皿には肉も野菜も何もかもが山盛りになっているわけだ。
 恨みがましい目でお皿を見つめていると、センパイがちいさく溜息をついた。

「すまなかったな、無理やり誘っちまったみたいで」
「いいえ、こちらこそ…ごめんなさい」
 お皿の上のお肉が冷えていくのが申し訳なくて、しゅんと下を向く。
 センパイの大きな手が、私の頭をゆっくり撫でて離れていった。

「別に全部食えって言ってるわけじゃねぇさ。無理して食うほうが身体に悪い。食えるものだけ食っておけばいい」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 私は持っていたメニューを先輩の前に広げて、ある一点を指差した。
 センパイの気持ちは嬉しいし、こんな状態じゃなかったらちゃんと食べたい。
 だけど、今は無理。
 少しでも食べられそうなものは、メニューの中にひとつしかなかった。

「冷麺、お願いします」

 センパイは微笑を浮かべて頷くと、すぐに呼び出しボタンを押してくれた。


《8月29日 焼肉の日》
あの日を過ぎてはいますけど、このシリーズの中では日付は気にしないことにしました(笑







10:

 ある朝、事務所にダンボールが届いた。

 みぬきがびっくりして目を白黒させているうちに、
 パパが鼻歌を歌いながらばりばりとガムテープを剥がしていく。
 いつもなんにつけダルそうなパパがこんなにイキイキしてるのを見るのは、結構久しぶりだ。

「ね、パパ、それなに?」
 パパの手元を覗き込みながら、わくわく笑顔で聞いてみた。
「パパの友達がね、結構山のほうに住んでるんだけど……たまにこうして名産品を送ってくれるんだ」
 食うにも困る生活にはありがたいなあと、なんとも情けない発言にムスメとしてちょっとだけ溜息がこぼれる。
 うーん、やっぱりパパももっとお仕事しないとまずいなあ。
 ショーガクセーのみぬきじゃ、さすがにちょっと稼ぎも限られてるし。
 そんなことを考えてるうちに、パパは剥がし終わったガムテープをぐるぐる巻いて
 ゴミ箱にぽいと捨てると、ニコニコ笑いながら箱を開封した。

「ほら、すごいだろう?みぬき」
「うわあ!」
 箱一面にぎっしり並べられていたのは、桃とプラムと種のないちいさなぶどう。
 くだものなんてうちの稼ぎじゃゼータク品だから、すごくうれしい!
 思わずプラムをひとつ手にとってかじろうとしたら、パパに止められた。
「こら、洗わないとダメだぞ」
「う、ごめんなさい」
 しゅん、と肩を落としてると、パパがふいと席を立って洗面台に歩いていった。
 そしてつやつや光る赤紫色のプラムを、にっこり笑いながら差し出してきた。
「ほら、これ。洗ってきたから」
 一緒に食べよう、と手の中に押し込められたそれを、ゆっくりとかじる。
 ぷつん、と歯の先で皮を破る感触がしたあと、甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。
 全然冷えてなくって、むしろ生ぬるいくらいなんだけど、すっごくおいしい。
「おいしー!」
「だろ、たくさんあるから毎日食べられるよ」
 笑顔のパパが、箱を抱えて中身を冷蔵庫に放り込んでいく。
 桃もぶどうも、ふたりで毎日食べたって10日はいけちゃいそう。
 あ、でも、痛んじゃうこと考えたらあんまりとっておけないなぁ……
 うーん、どうやって食べようかな、迷っちゃう。

「くだものだけじゃなくて野菜もたくさんもらったから、今夜から少しゴーカだぞ」
 くだものを全部冷蔵庫に入れて戻ってきたパパが、みぬきの頭をぽんとたたいた。


 その日の夕食は、確かにゴーカだった。それはウソじゃない。
 いつもごはんとお味噌汁とおかずがひとつ、なんて感じだったけど、
 今日はおかずがみっつもある。これは確かにすごいんだけど……
「……ね、パパ」
「なんだい、みぬき」
 唇を尖らせて、テーブルの上の大皿を指差した。

 そこに盛り付けられているのは、チンジャオロースとゴーヤチャンプル。

 炒め物と炒め物ってどうなんだろう、と思わないでもないけど、
 それ以前の問題で、ピーマンもゴーヤもニガテだ。っていうか、キライ。だって、にがいんだもん。
「みぬき、これ、やだ」
「わがまま言うな、好き嫌いしてると大きくなれないぞ」
 パパが眉を寄せるけど、キライなものはキライだ。
 なんとか逃げられないかなーと思って、もうひとつ用意されていたつやつや黄色いゆでたとうもろこしを指差した。
「ね、これ食べるから、こっちは許して?」
「だーめ。これは甘すぎるからおかずにはならないよ。食べ終わったら、ね」
 みぬきの願いもむなしく、とうもろこしは遠くへ追いやられてしまった。
 仕方なく目の前にパパが移動させてきたチンジャオロースの大皿に、そろそろと箸を伸ばす。

 うーん。お肉とたけのこだけ選んで食べたりしたら、多分……だめだろうなぁ。

《8月31日 野菜の日》


 

(1〜5…2007.8.1〜8.24)
(6〜10…
2007.8.25〜9.1)

どうも、親子と響茜もデフォになってきました。
1年分終わったら、全てまとめてみようと思っています。どのくらいの分量になるんだろう?

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