拍手お礼SS(記念日編・6月)

 

1:

 金曜の夜は、自宅に帰らない。
 そんな習慣ができたのはここ数ヶ月のこと。
 はじめは緊張に次ぐ緊張で安眠なんて程遠かったものだけれど、
 最近はすっかり慣れてしまって、むしろ自宅にいるよりもリラックスできるくらいだ。
 それが私だけじゃないといいなと思いながら、今夜も小さなキッチンで作ったご飯をふたりで食べて、
 ふたり枕を並べて、くっつきあって眠る。

 金曜の夜は、街並みもいつもより活気付いているように見える。
 コンパでもしてきたのか、円陣を組んで騒いでいる学生。
 カラオケや飲食店の勧誘も、今日はいつもよりも多い。
 活気は繁華街から駅までずっと続いていて、人波に揉まれながら定期を取り出し
 これまた人波に押し流されながら改札を通過する。

 金曜の夜にうれしいことが、もうひとつ。
 この満員電車に乗る距離が、いつもよりも少しだけ少なくて済むこと。
「いいですよね、センパイんち。私より近くて」
 ブリーフケースに定期券をしまおうとしているセンパイの手元を、横からひょいと覗き込む。
「おっと、いきなりだな…つうかそんなに変わらねえだろ、ふた駅じゃ」
 センパイはうまく私の体をよけて、定期券をしまう。
 それを見て、私は心の中でちょっぴり肩を落とした。

 私よりも仕事量の多いセンパイと一緒に帰れるのは、金曜日だけ。
 だからもう一度あれを見られるとしたら、そのチャンスはやっぱり金曜日だけ。
 ここ何週間か、ずっと気をつけて機会をうかがっているのだけれど
 どうにも隙がなくて、成功したことはない。

 センパイの定期入れの中にしまわれている写真。
 偶然一度だけ見てしまって、それからずっと気になっている。
 いつから入れているのか、どうしてあんな写真を持っているのか。
 答えは分かったような気もしているけど、それでも聞きたいのが乙女心というもの。

 こうなったら、だめもとで素直に見せてくださいというのが一番早いかも知れない。
 なるべくさりげなく切り出してみようと、私はすうと深呼吸をした。

「…そういえば、ずっと聞きたかったことがあるんですけど」
 吊革を握り締めて頭上の広告を眺めていたセンパイが、首だけを私のほうに向ける。
「なんだい、コネコちゃん」
「センパイのパスケース、写真入ってますよね?あれ、いつから入ってるんですか」
 できるだけさりげなく切り出すと、隠し切れない含み笑いを浮かべて私はセンパイの目をまっすぐに見つめた。


 その瞬間のセンパイの表情を、私は一生忘れないだろう。


《6月1日 写真の日》
※「4/25 拾得物の日」を読んでいると、より話が分かるかもしれません。




2:

※4最終話までのネタバレ有※

 

 

 

 しあげはおかあさん、そんなフレーズの歌があることは
 きっとこの国で生まれ育った人間なら大体の人が知っているだろうと思う。
 かく言う私もこの歌と一緒に育ち、そして今はこの歌とともに娘の歯を磨くようになった。
「ママ、はにがきー」
「はいはい」
 拙いながらもようやく2語文が話せるようになって来た娘をひざの上に乗せて抱き上げ、
 渡された歯ブラシを右手で握ると左手を娘の頬に添えた。
「はい、あーん」
「あー」
 素直におおきく開いた口の中に歯ブラシを差込み、
 磨き残しやすい歯と歯の隙間や噛み合わせを丁寧に磨いてやる。
 母から私へ、私から娘へ、連綿と続いてゆく親子のコミュニケーション。

 娘は歯を磨かれながら、くりっとした瞳で私を見上げてくる。
 その姿にどうしようもなく既視感を覚えた。

(…ごめんね)

 今は傍にいない、同じ瞳をしたもう一人の我が子を思う。
 右腕の腕輪がぎゅっと存在感を増した。
 かつては両腕に感じていた感触も、今は片方にしかない。

 必ず迎えに行く、その為に腕輪を託した。
 でも、もしかしたら私はこうして片腕の違和感を感じることでそれを自分への罰に変えているのかもしれない。

 連れてこようと思えば連れて来られた。
 たった一人の親なんだから、そうするのが一番だったはずだ。
 なのにどうして私は、あの子を義両親のもとへ預けてしまったのだろう。

 私の手が止まっているのを不審に思ったのか、
 娘が、ちいさなもみじのようなてのひらを私のほうに伸ばしてきた。

「…ママ、いたいの?」

 なかないで、と頬に添えられた暖かな手を、かつてのあの子と同じ小さな身体を、
 ごめんねと繰り返し呟きながら、震える手で抱きしめた。

《6月4日 虫歯予防デー》



3:

「ねえなるほどくん、たまには何かおごってよ」
「真宵ちゃんの給料が下がってもいいならいいよ」
 そんな会話を何度繰り返しただろうか。
 まあ、そう返しておけばぶーぶー文句を言いながらもあきらめるだろう、って魂胆だ。

 そしてまた今日もそんな何度目かのやり取りを繰り広げていたところで、
 ちょうど事務所に遊びに来ていた御剣に首根っこを掴まれた。
「まだ未成年の少女に食事をおごることもできないほどきみの心は狭いのか」
「自慢じゃないけど、狭いのは心じゃなくてサイフだから」
「…本当に自慢にならないな」
「自分でもそう思うよ」
 でも、真宵ちゃんにおごるなんてことになれば通常の3倍じゃきかないんだ、量的に。
 あの子はあの細い体のどこにそんなに入っていくんだろう、ってくらいよく食べる。
 それなら…と御剣は少し考えてから、口元だけを緩めて微笑んだ。
「ホテルなどのビュッフェ形式ならば金額は一律だし問題ないだろう。きみもたまには部下をねぎらってやるんだな。私のように」
 …天ぷらうどんひとつでそんなに威張られてもなぁ。
 というか、本当にイトノコさんをねぎらいたいならまず給料をちょっとでも上げてやるべきだ。

 そんなわけで御剣先導の元、ぼくらはホテル・バンドーのレストランに来たわけだけれど。
 …案の定というかなんと言うか、ほかのお客さんからの視線を集めまくりだった。

 4人がけのテーブルに案内されて、さあ何から食べようかなあと思った瞬間に
 すでに真宵ちゃんは皿の上に炊き込みごはんとチャーハンと巻き寿司を山盛りに乗せ、さらに別の皿にカレーまでよそって戻ってきた。
「真宵ちゃん、早ッ!」
「なに言ってるのー、こういうのは早い者勝ちだよ」
 どうやって持ってきたのか、コーラをごくごく飲んで真宵ちゃんはにやっと笑った。
「…イヤ、なくなったら補充されるんだから別にそんなに焦らなくても…」
「そうでもないぞ、成歩堂」
「え」
 御剣のほうを振り返ると、これまた皿の上に何種類ものパスタとピザを綺麗に積み上げ、
 ボウルには山盛りのサラダとさらにやっぱりどうやって持ってきたのか、優雅に紅茶などすすっている。
「なくなったものと同じものが補充されるとは限らないからな、真宵くんの意見はもっともだ」
「でしょー、さすがみつるぎ検事!」
 きゃらきゃらした笑い声を背後に、ぼくも何か食べようと席を立った。

 焼きそばとフライドポテトを適当に皿に乗せ、アイスコーヒーを手に戻ると
 すでに二人はさっきまで山盛りだった皿をほとんど片付けていて、
 あれが美味しかったのこれはイマイチだのと情報交換の真っ最中だった。

「じゃああたしも今度はサラダ持って来よ。さうざんあいらんどどれっしんぐ、でしたっけ?」
「ああ、そうだ。私はカレーを試してみるとするよ。しかしきみは大変健啖だな、真宵くん」
「やー、みつるぎ検事ほどじゃないですよー?」
 悪いお代官様のようなニヤニヤ笑いの真宵ちゃんを前に、こっそりため息をついた。

 無言のまま、冷め気味の焼きそばをもぐもぐと貪る。
 別に味なんて屋台の具なし焼きそばでもなきゃどこだってそう変わらないのになぁ。
 ぼくみたいなのは、多分にこういう食事形態には向いてないと思う。
 そんなぼくの憂鬱もどこ吹く風、御剣と真宵ちゃんはすでに席を立って新しい皿にあれやこれやと料理を盛り付けていた。
 その様子はとても楽しそうで、ぼくは大人気なくも嫉妬する。

 …あーあ、なんだかなぁ。
 今まで気づかないフリをしてきたんだけど、御剣と真宵ちゃんって、実はかなり相性がいいんじゃないだろうか。

 でも絶対に御剣は譲らないぞ、と決意を新たにして、
 ぼくはアイスコーヒーをどこかの誰かさんのように一気に飲み干した。

《6月8日 バイキングの日》
※書いた後でバイキング違いに気づきました。海賊のほうだった!






4:

 7年ってのは、ずいぶん長い。
 生まれたばっかりの赤ちゃんだって小学生になるし、
 まだまだ子供だと思っていた娘も、もう受験だなんだって話題がちらほら出始めてる。
 この7年でぼくの身辺はずいぶんと様変わりしてしまい、
 何よりもぼく自身が、古い知り合いに会ったとしても
 ぱっと見ただけでは気づかれないくらいに変わってしまった。
 変わらないものといったら、生まれてからずっと付き合っているこの髪型と、
「…一体さっきから何をしているのだ」
 ぶつくさ文句を言いながら、寝転ぶぼくにひざを貸してくれている御剣くらいだ。
「なにって、ひざまくら」
「きみはされる側ではなく、する側だろうが、今は」
 御剣は呆れたようにため息をつき、手の中の新書のページを繰る。
「みぬきくんは元気か」
「元気だよ」
「そうか。またいずれ顔を見たいものだ」
 御剣の声を聞きながら、ぼくは目を閉じて愛娘の眩しい笑顔を思い浮かべた。

 みぬきを御剣に会わせたことは、この7年間の間でも数えるほどしかない。
 理由は変な心配や嫉妬心なんかじゃなくて、
 ただ、御剣と会うときのぼくは「パパ」でいたくないから、というぼくの単純なエゴでしかない。
 もちろん、みぬきのパパである自分が嫌いなわけでもない。
 ただ御剣と会うときのぼくは、ただの成歩堂龍一という一人の男でありたい。
 少しでも、昔のままのぼくでいたい。それだけのことだ。
 カッコ悪いのは重々承知だから、御剣には口が裂けても言えないけれど。

 御剣は相変わらず目と指先だけを動かして新書を読んでいる。
 普段は不器用だけど、慣れてしまえばその外見も相まってそつない所作に見えるっていうのはちょっとずるいなと思う。
 ぼくが同じことをしても、絶対に絵にはならないだろう。

「…ね、御剣」
「なんだろうか」
「本ばっか読んでないで、もっといいことしようよ」
 身体を起こして御剣の首に抱きつくと、その手の新書を取り上げてそのままキスをした。

 今のぼくはパパじゃない。仕事をしてないから、委員長でもない。
 同じように、御剣も今は法曹界の重鎮なんかじゃない。

 今のぼくらは、ただの恋人だ。


 ひとしきり御剣の唇を堪能して開放すると、
 てっきり照れるか怒鳴りつけるかするだろうと思っていた御剣は意外にも穏やかに笑っていた。
「御剣?」
「まったく…きみは変わらないな」
「…そんなこと言ってくれるの、御剣だけだ」

 ぼくは本当に変わっていないだろうか。
 昔のままのぼくは、まだぼくの中にたくさん残っているだろうか。
 御剣と会えなくなってしまったら、ぼくはどんどんぼくじゃなくなってしまうような気がする。

 それは嬉しいようで、どこか怖かった。

《6月12日 恋人の日》






5:

 大丈夫だ、大丈夫。
 心の中で何度もそう繰り返しながら、DVDが陳列された棚の周りを意味もなくぐるぐると巡回する。
 不自然な行動を取れば取るほど悪目立ちすると分かってはいるけれど、
 どうしてもそうせずにはいられない。
 …というのもこのレンタルショップには書店が併設されていて、
 オレはそこに今一番会いたくない人たちの影を見つけてしまったのだ。
 その親子は雑誌コーナーに赴き、かたや少女まんが雑誌を、
 かたやグラビアつきのうすっぺらい写真誌を立ち読みし始めた。
 ていうか娘の前でそのチョイスはないでしょう、とツッこみたいけど、
 そんなことをしてしまっては今必死に隠しているこの手の中のシロモノが
 見つかってしまう可能性は極めて高い。なんかあの人、そういうところ目敏そうだし。
 さすが伝説の弁護士というか、尊敬できるようなできないような。

 棚の陰に隠れて、手の中のケースを眺める。
 発売からこっちずっとレンタル中で、今日ようやく借りることができると心弾ませた逸品。
 彼女との出会いは3年前、どきどきしながらはじめて入ったビニール暖簾のコッチ側で
 「女弁護士 正義の法廷」なんてタイトルに唆されて借りた、人生で最初の1本だった。
 レンタル店ってシチュエーション別に並んでたりするから
 オレみたく女優さん優先だと探しづらいんだよなあ…とかなんとか考えつつ、
 いつまでも隠れてたって埒が明かないしさっと借りてさっと帰ろうと決意して
 さりげなく辺りを見回してから、レジに向かって一歩を踏み出した…その瞬間。

「…いい趣味してるね、オドロキくん」
「うわあああああああぁァッ!?」

 背後から聞こえた含んだ声に勢いよく振り返ると、
 顔に「見ちゃった」とか書いてあるくらいの勢いでニヤニヤ笑いを浮かべた成歩堂さんが立っていた。
「コスプレものが好きなの?」
 ああああの、これはその、とシドロモドロになったオレから手の中のパッケージをひったくると
 じろじろと無遠慮に嘗め回すように眺めた。
 そこには水色のセーラー服に身を包んだオレの女神がレモンを片手に持ち、
 無表情の中にも穏やかさを感じさせる表情を浮かべている。

 …終わった。

「…みぬきには制服で事務所来るなって言っておこうかな…」
 成歩堂さんはパッケージから目を離すと斜め上をぼんやりと眺めながら、ぼそりと呟いた。
「ああああああのその、オレ、別にそういう趣味なわけじゃ」
「いいんだよ、趣味嗜好は人それぞれだからね、否定することはない」
 ああお願いですからニコニコしないで!あと大きい声出さないで!
 オレほんとにこの女優さんだからこれ借りるだけなんで!
 別に制服好きとかコスプレ好きとかそういうんじゃないんで!
「…きみの声のほうが大きいと思うよ」
 うわあこんなところで発声練習が裏目に!

「もー、パパったらこんなとこに…あれ、オドロキさん!なにしてるんですか?」

 がっくりひざからくず折れたオレの顔を、みぬきちゃんがしゃがみこんで覗き込む。
 …今度こそ、完全に終わった。


《6月15日 レンタルビデオの日》
※オドロキくんが借りようとしたのは、「涼●ハヒルの消失」(笑)女弁護士〜は実在。ホントはもっとエグいタイトルです。パッケの女優さんが千尋さんぽくてどきどき。

 

 

6:

 この日、世の中のお父さんはきっとみんな幸せだ。
 今日は、そんな一日。

 普通にお父さんになった人たちにとっては、
 今年は舌足らずな声でありがとうと言ってくれた、今度は絵を描いてくれた、さらにその絵が上達した、
 お小遣いからプレゼントを買ってくれた……なんていう成長を実感していく日なんだろう。
 何年もの年月の積み重ねと、そのたびに出来ることが増えていくコドモに目尻を下げて
 毎年新しい感動を覚えるもの……なんだろうと、思う。
 少なくとも、うちのムスメになったばかりのみぬきと同い年の子供を持つ普通のお父さんは
 コドモの物心がついて以降、恐らく6〜7回はそんな感動を経験してきているんだろう。

 でもぼくとみぬきに過去というものは存在しなくて、ぼくにとってはこれがはじめての父の日だ。
 だから「今日はパパの代わりにごはんを作る!」なんてにこにこ笑顔で言われたとき、
 ぼくは嬉しさ半分、複雑な心境半分でその言葉を受け止めた。
「……どうしたの、パパ?」
 もうひとつのプレゼントであるところの黄色いバラを握り締めたまま固まっていたら、
 みぬきが下からぼくの顔を覗き込んできた。
「みぬき、ヘンなこと言った?」
「……ううん、なんでもない。うれしいよ。ありがとう」
 心配そうな表情にあわてて首を振ると、みぬきはまたニッコリと笑った。

 ちいさなキッチンで踏み台に乗って、なにやら物音を立てながらがんばっている背中を
 指先でバラをくるくるともてあそびながら目を細めて眺める。

 さまざまな過程をすっ飛ばして、ぼくたちはいきなりパパとムスメになってしまった。
 そして、いつザックさんが帰ってくるか分からない……帰ってくるよな、多分。
 だからぼくとみぬきが来年も父の日を過ごすことができるっていう保障は、どこにもない。
「……でも、少しくらい夢を見たっていいよな」
「え、何か言った?パパ」
「なんでもないよ」
 そう、と微笑むみぬきが、またキッチンに向き直る。

 そうだ、夢だ。自分でも分かっている。
 今はみそ汁と目玉焼きくらいしか作れないみぬきが
 きっと来年はオムレツやハンバーグなんかも作れるようになっていて……
 いや、違うな。もしかしたらもっとほかになにかスゴイことをしてくれるかもしれない。

 その相手がぼくになるのか、ザックさんになるのか。それはまだわからない。
 今日までの、そして明日からの日々すべてが、ぼくたちにとって奇跡だ。

 最後かもしれない父の日をしっかり心に刻み込んでおこうと、
 ぼくはキッチンに立つみぬきの背中を、料理が終わるまでずっと見つめ続けた。

《6月第三日曜日 父の日》






7:

※4ネタ注意※

 

 

 お菓子はコドモが食べるものだなんて、誰が決めた?

「そりゃあね、口寂しいからってすぱすぱタバコを吸われるよりは魅力的だと思うよ」
「別にアンタに魅力的だなんて思われたくないけど?」
 ショルダーバッグから引っ張り出した袋をばりっと開封して、中身を手づかみで取り出すとさくさくとむさぼる。
「でもそれ、いつも食べてるけど…太ったりしないの?」
「…セクハラよ、牙琉検事」
 仕事をしなさい、と睨み付けてやると、スカした検事サマは一瞬だけ気まずそうな顔をして
 少し離れたところで捜査を続けているほかの刑事へと歩を進めた。

 …で、ここであたし相手に仕事モードに入らないのはどうしてかしらね?
 たまに不思議に思ったりもする。別に気になるとかそういうのじゃないけれど。
 あたしは愛想もそっけもない女だ。それは認めるし、
 本来持たなきゃいけないハズの敬意だって微塵もない。
 それに同じ事を聞くなら礼節の行き届いた他の人と話したほうが気分もいいだろうし、
 だいたいカガク捜査に入ってしまえば人の相手などしていられない。
 ルミノールなんかは多少話しながらでもできるかもしれないけど、
 石膏なんか使ってた日には、少しのよそ見が大惨事になりかねない。

 しゃがみこんで地面をくまなく調べ、証拠になりそうな痕跡を探した。
 今日はなかなか結果が出そうにない。うんざりしながら手元の袋からかりんとうをつまみ出す。
 疲れたときには甘いものってよく言うし。
 口の中で馴染んだ甘みを転がしていると、とん、と肩をたたかれる。
 振り返ると、牙琉検事が相変わらずの微笑をたたえてそこに立っていた。
「そろそろお暇するよ。わかったことがあったらぼくの執務室に届けておいてね」
「了解」
 テキトーにひらひらと片手を振って、すぐに視線を地面へ戻した。
 どういうわけだか、ふ、とため息をついたような息づかいがして、
 その後で硬い靴底が地面をこつりと叩く音がした。

 やたらちょっかいを出してくるくせに、引き際はあっさりしてるんだよね。
 それだけ忙しいってことなのかもしれないけれど、ちょっとだけ拍子抜けする。

 遠ざかる背中に届くように、あたしは振り返って少しだけ大きな声を上げた。
 どうしてそんなことをしようと思ったのか、自分でもわからない。
 彼に言わせれば「風に聞いてくれ」とでも言うところだ。

「さっきの質問だけどねー」
「なにかな」
 こつ、と靴の立てる音が止まって、ゼロ円スマイルがあたしに向けられる。
 でもあたしも負けない。口の端を引き上げて、ふてぶてしく笑ってみせた。
「おかげさまで体力勝負だから、摂取した分はちゃんと消費できてるわ」
「そりゃよかった」
 牙琉検事は嫌味なほど白い歯をのぞかせて、にこ、と微笑んだ。

 こいつの笑顔は、そりゃもう日本中のたくさんの女の子をとりこにしてる。
 そんなことは知ってる。わかってる。
 でもあたしは違う。こいつの笑顔だけじゃない、もっといろんな顔を見てきてる。
 だから…――そこまで考えて、あたしは思考を放棄した。
 これ以上のことを考えたら、今みたいに仕事ができなくなってしまう気がしていた。

 遠ざかる足音をBGMに、さくさくとかりんとうを噛み締める。
「…なにが「よかった」のよ…」

 考えちゃいけないのに、考えそうになる。
 あいつはスター兼天才検事サマ。あたしはただの刑事風情。
 頭にちらつくコトバをぶんぶんと首を振って蹴散らして、
 それからダメ押しにかりんとうと一緒にがりがりと噛み砕いてやった。

 認めてやるもんですか、こんなの。

《6月21日 スナックの日》






8:

「なるほどくーん、でんわー」
「ごめん、今手が離せない!真宵ちゃん出て!」
 大声で叫ぶその間にも、電話は容赦なく鳴り続けている。
 ぼくの両手にはゴム手袋がはめられて、さらに右手にブラシ左手に洗剤。
 率直に言って、トイレ掃除の真っ最中だ。もたもたしてるうちに電話が切れる可能性が高い。
 依頼の電話だったりしたらコトだ。ただでさえめったに依頼なんてないのに、チャンスを取り逃がすのはごめんだし。
 真宵ちゃんが見ていたテレビを消して電話をとるのを耳で確認して、ぼくはふたたびトイレ掃除に没頭した。
「…はい、成歩堂法律事務所です」
 かすかに真宵ちゃんの声が聞こえる。依頼だったらいいな、と思いながら、ブラシをごしごしと動かした。
 それなりに仕事をこなして家賃くらいはそれなりに払えるようになったけど、やっぱりそんなに余裕があるわけじゃない。
 行列ができるほど…とまでは言わないにしても、それなりの希望なんかはあるわけで。
 それに近づくべく日々精進中、ってところだ。

 おそうじシートを便器に放り込んで水を流す。うん、今日もぴかぴかだ。
 トイレは家の鏡って言うからな…あれ、言わなかったっけ?
 なんてどうでもいいコトを考えながら所長室に戻ると、ちょうど真宵ちゃんがホクホク笑顔で電話を切ったところだった。
「ありがとう。電話、なんだった?依頼?」
 それにしてはうれしそうだなあ、と、にやにやと笑みがこぼれて止まらないといった様子の真宵ちゃんを眺める。
 この子がこんな顔をするのはだいたい食べ物絡みかトノサマン絡みか、
 というところなんだけれど…トノサマン関係の電話が来るとは思えないから、食べ物か。
「あのねなるほどくん、カニが来るよ!」
 …当たった。真宵ちゃんは、これ以上ないってほどのきらきら笑顔を浮かべてる。
「え…カニ?」
 カニって、あの、赤くて横歩きで食べるとうまいアレ?
「そ。カニ!もうあたし、今からよだれが止まんないね!」
「よかったね…でも、なんでカニ?」
 口元をほころばせた真宵ちゃんを横目に、デスクに腰掛ける。
 今日はもうトクベツ仕事はないから資料整理でもするかな、と思って目の前のファイルに手を伸ばした、その矢先。
「みつるぎ検事が送ってくれるって」
「え」
 予想外のコトバに思わず手が止まってしまったぼくを、誰が責められよう。
「だーかーら、みつるぎ検事!今ね、北海道にいるんだってさ。
 『少し早いが御中元代わりに送っておく』って。あたしびっくりして、
 珍しいですねって言っちゃったの。みつるぎ検事ってそういうことしそうにないからさ」
「…ま、それは否定できないけど…」
 でも、あいつが育ったのは狩魔の家だ。
 それなりの礼儀はそれなりに叩き込まれていることだろう。
「…でも、それにしたって、カニってのは…すごいな」
 いくらするんだろうか、とか、何か裏があるんじゃないだろうか、とか
 そんなことを考えちゃうのはぼくがビンボー人だからだろうか。
 それとも、御剣にとってはたいした金額じゃないんだろうか?それはそれで腹立つなぁ。

 …ていうか、それよりももっと重要なことがある。

「ね!すごいよね!」
 真宵ちゃんは何かを気にした様子もなく、ただただはしゃぎまわってる。
「ねえなるほどくん、あたしカニって寄せ鍋くらいしか思いつかないけどさ、
 今の時期に鍋だと暑いよね?どうやって食べたらおいしいのかなあ?」
「…ゆでればいいんじゃないかな。で、冷やしてポン酢つけて」
「もー、そんなのつまんないじゃない!
 もっとこうさあ、おいしいのがさらにおいしくなる食べ方とか考えようよー」
 ぷりぷりと頬を膨らせて真宵ちゃんが怒ってる。
 でも今のぼくは正直、相手をできるような心境じゃない。

 北海道に行くってコトを知らなかったぼく自身と、
 行くことをぼくに知らせてなかった御剣。
 決してどっちが悪いとかそういうのじゃないんだけど、
 このモヤモヤをどこにぶつけていいかわからない。

 隠しきれないため息をつきながら、
 ぼくは今すぐにでも御剣に電話をすべきかどうか考えていた。

《6月22日 カニの日》






9:

 地方から帰ってきたという御剣からの報告の電話に、ぼくは「今から行く」と言い張った。
『…私はゆっくり休みたいのだが?』
「別に下心なんてないよ」
 ほんと、ただ会いたいだけだし。
 ちょっと唇を尖らせると、電話の向こうで御剣が笑った。
『ならば、そう思わせてしまう日ごろの行いを改めたまえ』
「…善処します」
 ニホンジンらしい便利なコトバでお茶を濁して、本題に戻る。
「で、行ってもいい?」
「…不埒な真似をしようとしたら即刻追い出すからな」
「もちろん」
 見えないとわかっていながら、ぼくは胸を張った。

 なんだろう、やっぱり信頼されてないのかなぁ。
 こういうコトの捉えかたは人それぞれだから、仕方ないのかもしれないけど。
 でも、5日間。しかも事前報告なしの出張。
 そんな状況で、帰ってきた恋人に会わずにいられるだろうか?いや、いられない。

 …普通、そうだよね?

「久しぶりだな」
「…うん」
 玄関のドアが閉まるか閉まらないかのタイミングで、ぼくは御剣をふわりと抱きしめた。
 「なるほ、どう…」
 言葉をさえぎってキスをして、それから再び抱きしめる。今度はきつく。
「…黙って行かれるとさ、やっぱ思い出すよ」
「そうか…急だったので、つい」
 すまなかった、と呟かれる声が耳朶をくすぐる。
 それだけでもうすべてを許してしまっていい気分になってしまうぼくは、甘いんだろうか?
 密着したからだから、とくとくと鼓動が伝わってくる。
「…そろそろ離してくれないか、成歩堂」
「やだ」
 腕の中の体をさらに掻き抱いて、後頭部に回した手でさらさらの髪を撫でた。
 何もかもがぼくの体全体になじんで、まるでもともとはひとつだったみたいな錯覚すら覚える。
「…コドモか、きみは…」
 あきれたようにため息をついた御剣の唇をもう一度ついばんで、体の線を辿るように指を走らせると御剣の眉間にシワが寄り始めた。
「…電話で言ったはずだが?」
「あ、うん。ごめん」
 ぱっと手を離して、照れ笑い。でもこれくらいは別にいいと思うんだけどな。
 でも御剣の機嫌を損ねるわけにもいかないから、ぼくはあっさりと引き下がる。
 そのかわりに、道中用意しておいたストレートなコトバをくちびるに乗せた。

「愛してるよ、御剣」
「……!?」

 廊下に踏み出した御剣の足がぴたっと止まって、壊れたロボットみたいに
 ゆっくりと首がこっちに回った。あ、動揺してる動揺してる。
 こういうことを言うのはいつも、程度はともかくカラダのどこかが触れ合ってるときだからなぁ。
 固まってる御剣に微笑みだけを投げかけて、ぼくは言葉を続けた。
「1日だって離したくない、ずっとおまえのことを見てたって飽きないくらいに好きだ。それに…」
「も、もういい!きみの気持ちは十分にわかっているから、だから…!」
 恥ずかしいからやめてくれと御剣が懇願する。
 でも、ぼくはやめる気なんてさらさらない。
「…やめたら、『不埒な真似』しちゃいそうだからなぁ」
「……!」
 御剣の顔が真っ赤に染まっていくのを、かわいいな、と素直に思った。
「今日だけだから。聞いて、ね?」

 久しぶりに会えたから、いっぱい話しておきたいんだ。
 カラダで簡単に愛は語れるけれど、コトバでだってそれは不可能じゃない。
 ぼくの持てる言葉のすべてできみへの愛を語るから、ちゃんと聞いてて。
 …ね。

《6月27日 演説の日》






10:

 食道楽の人がレストランをあちこち回るように、私たちは時々カフェを回る。
 行きつけのお店に行けばそれなりにおいしいコーヒーが飲めるとわかってはいても、
 もっと上はないか、もっと違うテイストの店はないか…と考えては街を徘徊し、当たり外れに一喜一憂する。
 そんな風に休日を過ごすのが、最近の私たちのブームだった。

「ここは当たりだな」
 メニューを見ながら、センパイがにやりと笑った。
「まだ、飲んでもいないのに?」
「店構えと客層とメニューの書き方から、大体な」
「…それ、勘となにが違うんですか?」
「ぜんぜん違うさ」
 得意げなセンパイを前に、ふうん、と頷いて辺りを見回した。
 間口の狭い店なのに店内は明るくて、コーヒーのいい薫りが漂っている。
 レジ横に鎮座しているガラス張りのショーケースでは、どうやら豆を売っているらしい。
 私たちが座っている二人がけのテーブル席から通路を挟んで左側にはカウンターがあって、
 常連客らしい壮年の女性がふたり、マスターと旅行の話に花を咲かせている。
 反対側を見るとついたての向こうにボックス席がいくつか。
 半分ほど埋まっているその誰もが少し年配の方のようで、
 カフェにありがちの時間つぶしの若者の姿は見当たらなかった。
 …ハタから見たら、私たちもそう見えるのかもしれないけれど。
「決まったかい、コネコちゃん」
「あ、ごめんなさい、まだ…」
 センパイが差し出してくれたメニューを覗き込んで、どうしようと思案する。
 モカにブルーマウンテン、キリマンジャロ、エスプレッソ。紅茶もそれなりに揃っていた。
 何枚かに分かれたメニューを並べて思案する。
 正直なところどれも気になって、ひとつに絞れそうにない。
「別に今日が最後ってわけじゃねえんだ、気楽に決めな」
「…じゃ、これにします」
「季節のフルーツパルフェ」と書かれた文字を指差した私に、センパイは目を丸くした。
「コーヒーじゃねえのか」
「だって、コーヒーは次にでも同じものを飲むことができるでしょう?」
 でもこれは、「季節の」と銘打たれている以上次も同じものが出てくるかどうかわからない。
 …それに。
「…コーヒーはもう今日だけで2杯飲みましたし…そろそろ甘いものが恋しくなって」
「コネコちゃんはやっぱりコネコちゃんだな」
「どういう意味ですか、それ」
「いや」
 微笑にからかいの色が混じっているのには、気づかない振りをした。

「…ほう、うまいな」
「良かったですね」
 やっぱり当たりだ、と呟いたセンパイの口元がほころんで、満足そうに目が細められる。
 私も運ばれてきたパフェをスプーンで掬って口元に運んだ。
「……!」

 それは予想していたようなバニラアイスとコーンフレークのものではなく、どちらかというとトライフルに似ていた。
 小さなカステラの欠片とラズベリージャム、クリームチーズのアイスが層を織り成し
 ところどころでパイナップルとさくらんぼが飾られている。
 クリームチーズの酸味とジャムの甘み、そしてフルーツの甘酸っぱさが絶妙だった。

 手が止まってしまった私を不審に思ったのか、センパイが顔を覗き込んでくる。
「どうした、コネコちゃん」
「…美味しい、です…!」
 今までそんなにたくさんのパフェを食べてきたというわけでもないけれど、
 それでもこれがほかのものとは違うのだけはすぐにわかった。
「センパイも、これ!食べてみてください!」
「いや、甘いものはあんまり…」
「これなら大丈夫ですって!」
 この感動を分かち合いたくて、私はスプーンの上にアイスとカステラ、さくらんぼをひとつ乗せてセンパイの顔の前に突き出した。
「…なあ、コネコちゃん…」
 少し困ったように眉を寄せたセンパイが、珍しく苦笑してる。
「?」
「…いや、いい。ありがたくいただくぜ」
 あーん、と差し出したスプーンに口をあけてかぶりついてきたセンパイの姿を見て、
 私はようやく自分が何をしたのかに気づいた。瞬時に、頬が真っ赤に染まる。
「なるほどな、こりゃ美味い」
「…それ、絶対味だけのこと言ってるんじゃないですよね…」
 私をまっすぐに見つめてくるニヤニヤ笑顔のセンパイにいたたまれなくなって俯くと、
 お返しに、と視界の端にコーヒーカップが差し出された。

《6月28日 パフェの日》


 

(1〜5…2007.6.1〜6.18)
(6〜10…
2007.6.19〜6.30)

今回から4ネタが入ってきてます。
なんでも事務所の3人がかなり好きなのでもっと書いてやりたい。響茜は出来上がってないほうが好みっぽいです…


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