拍手お礼SS(記念日編・10月)

 

1:

 「季節の」とか、「期間限定」ってコトバに、どうしようもなく弱い。
 それはもう、女と生まれた本能なんじゃないかって思えてしまう。

 この喫茶店にはいつでも来られるし、実際、足を運んだ回数も片手じゃ足りない。
 それならば「うまいコーヒーを奢る」と言われてついてきた今日くらいは
 おとなしくコーヒーを注文すればいいだろうに、そう、自分でも思った。

 …それでも、やっぱり今日も私の目の前にはパンプキンプリンと栗のクリームでかざられた
 秋色のパフェが鎮座しているのだった。
 今回入ってるスポンジはココア風味らしく、ほんわりとした焦げ茶色が
 グラスの底のほうに敷き詰められて、ところどころに生クリームらしき白さと、
 スポンジよりもさらに色濃い茶色――おそらくチョコレートアイス、が見える。
 そのコントラストに目を細めながらスプーンを手に取ると、センパイが喉の奥で笑った。

「クッ……コネコちゃん、コーヒーショップが泣くぜ」
「いいんです」
 ちょっとだけ膨れてみせると、仕方ない、といわんばかりに肩をすくめられる。
 苦笑をその顔に刻み込んだセンパイが、真っ白なカップに手を伸ばす。
 少しだけ申し訳なく思いながら、私もスプーンを口に運んだ。
「……あ」
 センパイが思い出したように、声を上げる。
「なんですか?」
「今日は、そいつはコネコちゃんだけでやっつけてくれよ」
「し、しません!」
 にやにやと笑われて、つい数ヶ月前の自分の所業を思い出し思わず赤面した。


 それからしばらく、ぽつりぽつりと会話を交わしながら
 期待を裏切らないパフェをにこにこと味わっていると、
 ふと、目の前に真っ白なカップが差し出された。

「……?センパイ?」
「今日は、うまいコーヒーを飲むべき日、だぜ」
「へ?」

 わけがわからず首を傾げるままの私に、センパイはメニューの端を指差した。
 そこにあったのは、
「10月1日 コーヒーの日 当月のみのブレンドを提供しております」
 ……という、一行。
 メニューを全部見る前から、パフェに心奪われていたせいで気づけなかった。

「と、いうわけだ。こいつだって、“限定”、だぜ?」
 にやりと唇の片端をあげるセンパイの前で、私は差し出されたカップから
 その「限定」コーヒーを一口ふくみ、ゆっくりと味わった。

《10月1日 コーヒーの日》






2:

 長袖にはまだ少し早くて、半袖じゃ少しだけ寒い。
 そんな微妙な時期になって、いつも外で食べてたお弁当も
 そろそろ場所替えが必要かな、なんて思ったのは、
 薄手のカーディガンを羽織ってお弁当を広げているちいちゃんが
 ちいさな声でくしゅんとくしゃみをして、
 それから少しだけ寒そうに自分の身体を抱きしめたからだ。

「ちいちゃん、大丈夫?」
「ごめんなさい、だいじょうぶ……です」
 へにゃ、と微笑むちいちゃんは、だけどやっぱり寒そうで
 何かしてあげられることはないかと思って自分の身体をあらためるけど、
 何度見直したってくたびれたTシャツ1枚のぼくには、何も出来ない。
 薄曇の空の下、今日の風は確かにちょっと冷たい。
「ごめんね。今からでも移動しようか」
 場所あるかなあ、昼休みだし、学食は無理だよなあ。他にどこかあるかな?
 思い当たる場所を頭の中でリストアップしては消していると、
 ちいちゃんの白い手がぼくのTシャツの裾をちょんとつまんだ。
「大丈夫ですから、ここで食べましょう?今日は」
 ちいさなベンチの上でお弁当箱を広げ、ちいちゃんは笑った。
「寒いのは今日だけ、らしいですから。今日がまんしたら……」
「ダメだよ!」
「え」
 びく、と少し震えたちいちゃんの肩を掴んでから、
 ぼくは目の前で綺麗にセッティングされたお弁当箱を重ねて
 ちいちゃん持参のランチバッグの中にしまった。
「り、リュウちゃん?」
「今からでも、どっか別のとこ、行こう?」
「でも、今からでは……」
「大丈夫。大教室とかだったら、探せば鍵が開いてるとこもあるだろうし」
 もしどこも開いてなければ、ゼミの先生にミーティングルームの鍵を借りたっていい。
 っていうか、多分、それが一番早くて確実だ。
 荷物をまとめ終えて、ふたり分の鞄を肩に、お弁当を両手に持って立ち上がると
 ちいちゃんのほうを振り返った。
 ここで手を差し出せたらかっこいいんだけど、両手が塞がってるから。ごめんね。
「ほら、行こう?」
「は、はい……」
 迷いながらも立ち上がったちいちゃんの姿を確認して、ぼくは石畳を踏んで歩き出した。
「……本当に、大丈夫、でしたのに……」
「ううん、ダメだよ、そんなの」
 困ったような声を、ぴしりと遮った。

「……ちいちゃんは、ぼくの天使だから。風邪なんかひかせたくないもん」

 照れながら、真っ直ぐ前を向きながらぽつりと呟いた言葉は、
 ちいちゃんの耳にも届いたみたいで。
 少しの沈黙の後、ささやくようなはにかみ声が
 ありがとうの言葉をぼくにくれた。

《10月4日 天使の日》






3:

 初恋はレモンの味、なんて、よく言いはするものの。

「御剣の初恋って、誰?」

 既に酒精で目元をうっすら染めた成歩堂が、自分のグラスにロックアイスを放り込みながら
 ぽつりと呟くのを、心なしか意外な気持ちで見つめた。
 こと法廷ではハッタリを崩さないこの無敵のオトコは、なぜか私に対してだけ妙に押しの弱い部分がある。
 当事者の私がこういうことを言ってしまうのも問題かもしれないが、
 成歩堂のこの部分を、私は“先に惚れた者が負け”だから、だと思っている。

 だから、その成歩堂がこんな地雷じみたことを聞いてきたことには少なからず驚きを覚えた。
 が、酒の勢いに任せて気になることを聞いてしまおうという試みは、ある意味彼らしいとも思う。
「なんだ、そんなことを聞いて、どうしようというのだ」
 く、と喉の奥で笑いをかみ殺すと、敏感にその空気を察知したらしい成歩堂が眉を寄せた。
「……いや。ただ、気になったから」
 俯いたままで手の中のグラスをころりと揺らして、成歩堂はその水面をじっと見つめている。
 その表情は期待半分不安半分といったところで、
 ああ、このオトコは、私の口から自分の名前を聞きたいのだと直感した。

 そして、その気持ちは私とて心のどこかで持ち合わせているものだ。
 先に惚れたもののみが抱く感情ではない。お互いに懸想していれば、自然と生じうる。
 だから少しだけ意地悪をしようと、少しだけ笑いながら口を開いた。
「なんにしろ、人に何かを聞くときは、まず自分から言うものだ」
「……う」
 真っ直ぐ見据えると、成歩堂が困ったように眉を寄せ口をへの字に結ぶ。
「言えないなら、私も答えないが?」
「……別に、言ってもいいけどさ」
「そうか。なら、言ってもらおうか」
 視線を外さぬまま問うと、成歩堂の頬がきっと酔いだけでなく紅く染まった。

 その答えは、わかっている。
 でもだからこそ、時折言葉にして聞いて確認したい。
 思春期の乙女でもあるまいし、と自分でも思うが、仕方ない。

 少しだけ逡巡したように目を伏せたり上げたりしていた成歩堂が、意を決したように
 きっと顔を上げた。

「ぼくは、おまえだけど……おまえは?」

 予想していた答えでも、胸を占める暖かい気持ちは変わらない。
 それはきっと、まだ自覚のなかった、幼いあの日からずっと。

 お互いの手の中、ちいさなグラスの中でほぼ同時に氷がからんと音を立てて回り、
 浮き上がった櫛切りのレモンが、ふわりと爽やかな香りを届けてくれた。

《10月5日 レモンの日》







4:

 突然どこかでぱぱぱぱーん、と爆竹が鳴って、びっくりしたあたしがひゃっと肩を竦ませると
 なるほどくんがぶはっと吹き出した。
「ちょっと、ひどいよ!なるほどくん」
「いや、だって、びくんって、すごい動いたし……はははは」
「もー、そんなに笑わなくてもいいじゃん!」
 肩を震わせながら口元を覆い、くつくつと笑い続けるなるほどくんにつかつかと歩み寄って
 ぺちんとデコピンを浴びせる。
「いてッ!」
「へーん、自業自得……っわ!?」
 おデコを抑えるなるほどくんを見ながらにやにや笑ってると、またぱーんと爆竹の音。
「なんだろね、誰か花火でもしてるのかな」
「いや、この時期に花火はないだろ。大体今、真っ昼間だし」
 冷静ななるほどくんをスルーして窓辺に駆け寄り、ブラインドをそっと持ち上げてみる。
 いつもそれなりに車が通ってるはずの道路はがらんどうで、
 かわりに、と言えるのかどうか、道路わきにちらほらと人が集まって同じ方向を見ている。
「なんだろ、なんかあるみたい」
「ん?どれどれ」
 窓際にやってきたなるほどくんが、あたしの隣でやっぱりブラインドを持ち上げて外を見る。
「あ。今日、お祭りだ」
「おまつり?」
「そう、ここ、御神輿の回るコースなんだよ」
 それだけ言うと、なるほどくんは席に戻ってまた慣れないパソコンに向かい始めた。
「へー」
 そういわれると、おみこしが来るのを見ていたくなっちゃうのがサガっていうか。
「ねーなるほどくん、見に行こうよ」
「だめ。なんのための休出だよ」
 なかなか追いつかない事務処理のために、今日は出勤と決めた横暴所長が
 あたしの机を指差して、無言で座れと圧力をかけてくる。
「いいじゃん、10分だけ!」
「10分経って、御神輿が来なくても帰れるって言うんならいいけ……」
 ど、と言おうとしたなるほどくんの口が固まる。
 どこか懐かしさを感じるような篠笛と太鼓の音が、かすかに響いてきた。
「ほら、もう来るもん!ちょっとだけだから!」
「わ、わかったから!ソデ引っ張るなって!」
 なるほどくんの腕を強引に取って、ドアをばんと押し開け階段を駆け下りると、
 すぐそこに雅楽隊が来ていた。

「うわー!」
 和太鼓の低い音に、篠笛のかすれる様な高音が絡む。
 どうしようもなくこの音色を懐かしく感じるのは、この国に生まれたからなんだろうな。
 大昔のご先祖様のご先祖様から、ずっとずっとDNAのどこかに刻み込まれてるんだと思う。
 雅楽体のあとをついていくように、揃いのはっぴを着た男の人がおみこしを担いで通り過ぎる。
「コドモじゃないんだね、ここは」
「あ、真宵ちゃんたちのほうは子供神輿か」
「うん」
 とはいえコドモ自体が少ないから、そんなに大掛かりなものじゃない。
 小学校の周りをちょっと練り歩くくらいの、形だけのものだ。
「やっぱ、街だとおまつりもでっかいねー」
「そうだね。少しだけどあっちの公園で、出店も出てるし」
「え、ホントに!?」
 きら、と目を輝かせてなるほどくんを振り返ると、明らかに「しまった」ってカオしてる。
「……ねえ、なるほどく……」
「だめ」
 にやっと笑ったなるほどくんは、踵を返して階段をかんかんと上がっていった。

……ちぇー、なるほどくんのケチ。

《10月10日 和太鼓の日》






5:

※4ネタ注意

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわあああん!パパのバカ!!」
 子供らしい罵声と泣き声とともにばたんと閉まるドアを見ながら、
 ああ、やっちゃったなあ……と溜息をついて頭を掻く。
 半年ほど前にはじまったデコボコ親子生活は、時間が経つに従って
 いろいろな問題が噴出しつつある。
 決して、みぬきがネコをかぶっていたわけじゃない。それはよくわかる。
 彼女は彼女なりに一所懸命生きてきて、同年代の子供たちよりも
 いろいろなことを知っているし、考えている。それは事実だ。
 はじめこそそんな彼女に助けられてきたけれど、
 さすがに時間が経過しぼくも随分立ち直り、新しい生活に順応してきたわけで。

 女の子だけあって、世話を焼くのも家事をするのもどうやら好きなようで、
 ぼくが内心かなり荒れていた間も、彼女はぼくの背中を叩きながら
 部屋を整え、つたないながらも食事を用意し、がんばって掃除をしてくれた。
 それは本当に嬉しかったし、そのおかげで今のぼくがあるのも間違いない。

 みぬきは確かによく出来た子だけれど、まだまだ子供だ。
 だから今までみぬきがくれたものを、今度は立ち直ったぼくが返していこうと思っているだけ。
「……の、はずなんだけどなぁ……」
 はあ、と溜息をついて、散乱した掃除道具を拾い集めようと膝を折った。

 水浸しになったキッチンの床を拭きながら、どんどん冷静な自分が帰ってくる。
 洗い物の順番や、ぞうきんの絞り方、ほうきのかけ方なんて、そんなに大事なことじゃない。
 そりゃ、効率のいいやり方はちゃんとあって、そうした方がいいに決まってる。
 でもそれはオトナの言い分で、彼女は彼女なりにきちんとやっているつもりだし、
 事実、時間はかかってもいつもそれなりの住環境を作ってくれていた。

「……それで、充分じゃないか」

 自主性を育てること。いらいらしても、簡単に手を出さないこと。
 出来ていることを認めること。きちんと褒めてあげること。
 半年前、恥ずかしい思いをしながら、図書館で育児本を何冊も読み漁った。
 そこに書かれていた文言を一言一句心に刻み込んだつもりで、
 月日の経過とともに、ぼくはそのことを忘れてしまっていたんだ。

 心の中に、みぬきの屈託ない笑顔を思い浮かべる。
 その笑顔はきっとにせものではないけれど、まだ、心からのものではないだろう。

 ぼくの世話を焼くことで、彼女は彼女なりに気を紛らせていたんじゃないだろうか。
 あの年齢で両親ともに行方が知れない、だなんて。
 天職を失ったぼくですら、立ち直るのにこれだけの時間を要した。
 だから、彼女が今でも傷を負ったままであることを、ぼくは忘れちゃいけなかった。

 明日から、何もかもをいっしょにやろう。
 彼女のすることを見守りながら、時折そっと手を貸すくらいでちょうどいい。 

 うまくできてると思ってたけど、まだまだぼくはパパ一年生だ。
 育児は育自。これからみぬきを育てていくのといっしょに、ぼくも育ってく。

 みぬきと暮らす日々はすべて、きっと何かの糧になるはずだ。

《10月12日 育児の日》






6:

 ちょっと前に相談を受けていたお客さんから、クール宅急便でお礼が届いた。

「うわー、こんなのもらえるなんて。なるほどくんも立派になったね」
「……真宵ちゃんに言われると、なんだかなぁ……」
 まんざらでもなさそうな、でも言葉通り複雑そうにも見える表情でなるほどくんが苦笑する。
 あたしは目の前に鎮座した箱をじっと眺めた。
 うーん、このサイズ……なんだろ?
「なるほどくん、開けてみていい?」
「うん、多分冷やしとかなきゃいけないものだし、ばらして冷蔵庫入れといて」
「おっけー」
 聞くが早いか手が動くのが早いか、べりべりと包装紙を破っていく。
 この大きさの箱で、冷やさなきゃいけないって言ったら絶対絶対、おいしいものに決まってる!
「おー……!」
 包装紙の中から出てきた真っ白なボール紙の箱をばかん、と開けると、
 そこにはシュークリームがぎっちり並んでいた。
「なになに、何だった?……おっ」
 思わず感嘆の声を上げたあたしの横から、なるほどくんがひょいと顔を出す。
「シュークリームだ」
「だね」
 袋に入ってきっちり並んだそれは、どうやらぜんぶ味が違うみたいだ。
 見た目からして色が違うものもあるし、見た目ではわからないものもある。
「へー」
 一個手に取って、しげしげと眺める。
 コンビニとかで売ってるような、ふわふわした感じがしない。
 どっちかというとどっしりと硬くて、うーん、これほんとにシュークリーム?って感じだ。
「ね、食べていい?今」
「ん、まあ、そのためにいただいたものだしね」
 今日はあんまり仕事もないらしいなるほどくんが、箱の中を物色し始める。
「……普通のとプレミアムって、何が違うんだ……?」
「食べ比べてみたらいいじゃん」
「でも、一個ずつしかないぞ」
「じゃあ、はんぶんこで」
「うん、そうしよっか。あたし、お茶淹れてくるね」

 にこにこと上機嫌でお湯を沸かし、いつもの日本茶じゃなくって紅茶を用意して戻ると
 なるほどくんが口をへの字に曲げて、まゆを寄せていた。
「どうしたのなるほどくん、まゆげが曲がってるよ」
「いや、それはいつもだから……って、そうじゃないだろ!」
 おー、いいノリツッコミ。
「で、どうしたの?」
「……手で割ったら、ちょっと。ごめん」
 なるほどくんが差し出してきた手の中に、どう贔屓目に見ても半分ずつにしたようには見えない
 シュークリームの成れの果てが治まっていた。
 ついでに言うなら、クリームは皮からでろんとはみ出てなるほどくんの手にこぼれている。
「ちょっとじゃないよ、なにこれ!」
「仕方ないだろ、触って硬いと思ったからちょっと力入れたら思いのほかもろかったんだよ!」
「……それ、なるほどくんが食べてね、ぜんぶ」
 さすがに、この状態のものを貰いたいとは思わない。
「かわりに、プレミアムはあたしのもんだから。あと、抹茶とチョコと栗もね。あ、大納言も」
「どんだけ食べる気だよ!」
 なるほどくんのツッコミを無視しながら、箱の中からいつつのシュークリームを取り出すと
 あたしは油性ペンを取り出し、全部の袋に「真宵ちゃん専用!」って
 これ見よがしにでかでかとサインしてやった。

《10月19日 シュークリームの日》






7:

 ひんやりと冷えた夜気を頬に感じながら、合鍵を鍵穴に差し込む。
 ガチャ、と音を立てて開いたドアの向こうは当たり前だけど真っ暗で、
 手探りでスイッチを探し、電気をつけた。
 主のいない部屋をぐるりと見回し、ここに来ると勧められるソファに目を留める。
 ひとりで座ってみたけれど、いつも感じるような包み込まれる暖かさがなかった。
 それが右肩に触れるいつもの体温がないせいだって、わかってる。
 でも気づいてもどうしようもなくて、私はソファから立ち上がり、
 クッションをひとつ手にして壁にもたれて腰掛けた。
 しんと静まり返った部屋がいたたまれなくて、
 普段はあまり見ることもないテレビをつけてみる。
 それでも寂しさを紛らわせることは出来なくて、すぐに消した。
「……はぁ……」
 壁にかけられた時計を見上げ、思わず溜息が出る。
 彼から伝えられた帰宅時間は、11時。今は、8時半。
 2時間半もの時間を、彼のいないこの部屋で、一体どう過ごせばいいのかわからない。
(いつも、どうしてたっけ?)
 手近に転がった雑誌や、ラックの中に並んだDVD。
 いつもはふたりで見ているはずのそれらにも、今は興味が持てない。
 鞄の中から読みかけの本を取り出して読み始めてみたけれど、それも続かなかった。
 時計の針は、遅々として進まない。

「……同窓会、か……」
 適当に切り上げて帰ってくるから、と言った彼を説き伏せて、
 久し振りなんだから心行くまで過ごしてくるといい、
 そう笑ったのは私のほうだった。

 20年以上もそれぞれ別の人生を歩んできたんだから、
 お互いの知らない時間を、人間関係を持っているのなんて当たり前だ。
 それは普段は忘れているけれど、こういうときに思い知る。
 私の知らない彼を知っている誰かが、たくさん存在する。
 ……きっと、その中には女のひともいる。
 当たり前のことなのに、それは私の胸をきゅうと締め付けた。

 そんな私の隠し切れなかった寂しさや不安を見破ったのか、
 彼は、私にここで待っていて欲しいと、そう言ってくれた。
 絶対に帰るから。
 だから、何一つ心配しなくていいと。

「……よし」

 寂しさを振り払って、顔を上げる。
 いじけた顔をした私に出迎えられることを、きっと彼は望まない。

 壁に立てかけられた鏡ににじり寄って、口角を上げた。
 いつもの笑顔の私。彼が好きだといってくれる、私。

 もう一度テレビをつけて、チャンネルを昔見た映画に合わせる。
 始まったばかりのストーリー、その会話をBGMに、キッチンに立つ。
 やかんを火にかけ、コーヒーは私じゃうまく淹れられないからと
 いつだったか持ち込んだ紅茶を淹れて。

 香り立つマグカップを手に腰掛けたソファは、今度はちゃんと暖かかった。

《10月20日 同窓会の日》






8:

 展望デッキから飛び去る飛行機を眺めるのも、もう何度目だろうか。
 そして、見えやしないとわかっている飛行機の窓を見つめて、にっこり微笑んで手を振るのも。

 飛行機の形がわからなくなってただの光の点になって、
 そこでようやくぼくは手を下ろして、目を伏せふうと大きく息を吐く。
 何度繰り返しても慣れない寂しさが、どうしようもなく付きまとう。
 最後に握った手が、まだ暖かい。
 でもこの手も、すぐに冷えていってしまう。

 あいつの肌にぼくが刻んだぼくのシルシも、時間が経てば消えてしまう。
 いい虫除けになるとふてぶてしく笑うようになったのも最近の話で、
 はじめは真っ赤になって咎められた、そんなことももう笑い話だ。

 もう一度、空を見上げる。
 端が茜色に染まり始めた空。
 そのどこにも、さっきまで見えていた光の点は見当たらなかった。
 気づけば手のぬくもりもすでにない。
 さっきまで一緒だったのが、嘘みたいに寒くて、孤独だった。

 この手も、すぐに触れられ何度でも温もりを分け合える距離にあればいい。
 そして毎日のようにシルシを刻み続けていたい。
 その嫉妬深さや独占欲の強さに呆れられたっていい。
 それだけ好きで好きで、もう何年も好きで。
 ようやく腕の中に収まったと思ったら、すぐにその姿は世界のどこかに消えていく。
 心がつながっても、寂しいという気持ちだけはどうしたって消せない。

 あいつはいつか、ぼくのためだけに空を飛んできてくれたけど、
 ぼくにはあいつと同じことは出来ない。
 正規の手段で、やきもきしながらキャンセルを待って。チケットを買って。
 搭乗時間を待つ間の時計の針の進みを恨めしげに眺めて。
 知らない誰かの隣に座って、漫然と十数時間もの時が過ぎるのを待って。

 ……いや、それも、案外悪くないのかもしれない。
 火急の用。それこそ、あいつの身に何かがあっただなんてことでさえなければ、
 それは心はずむ時間のようにも思える。
 待つ時間だって移動時間だって、なんだって距離のある恋愛をする上での醍醐味だ。

 いつか内緒であいつのところへ行って、驚かせてやりたい。
 そんな乙女じみた思考にちょっと苦笑する。
 ……だからぼくは、いつまでたってもあいつに勝てないんだろうな。

 新しい飛行機が空を飛ぶのを見送りながら、
 既に藍色に染まった空を見上げて、今度は微笑みながら大きく息を吐いた。

《10月25日 民間航空記念日》






9:

※4ネタ注意

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日も西に傾きだした頃に目を覚まして、のっそりと起き上がりコーヒーを淹れる。
 既にこんな生活ももう何年目か、すっかり慣れ親しんでいる自分に苦笑した。
 そろそろ、もうすこし起きる時間を早くしておいたほうがいいかな。
 そんなことを考えてみるけど、どうかな、出来る気がしない。

 窓にかかったブラインドの隙間から、午後の日差しに照らされた町を見下ろす。
 忙しなく行きかう人並みの間に、飛び跳ねるように走る制服姿を見つけた。

 彼女の真新しい制服もだいぶ見慣れてきて、
 可愛い我が子がどんどん大人になっていく姿を見守りつつ暮らす日々ってのは
 なかなかに楽しいものだな、ということを、このところ妙に実感していたり。
 日々が忙しなく過ぎていくばかりだったかつてのことを思うと、
 随分とぼくも余裕が出てきて、パパらしくなってきたのかなって思ったりする。
 ……まあ、たぶん、気のせいなんだけども。

 いつの間にかそのちいさな姿は視界から消え、かわりにカンカンと階段を上がる音。
 そして、がちゃん、と、ドアが開いた。
「おはようパパ、ただいま!」
「うん、おかえり、みぬき」
 ショートカットを揺らしたみぬきのひまわりみたいなニコニコ笑顔に
 目を細めて返すと、残ったコーヒーをぐっと飲み干した。
「なんか、今日は嬉しそうだね、いつもに増して」
「え、そうかなー、わかる?」
「わかるさ」
 笑顔だけじゃない。全身から嬉しさをほとばしらせている様は、
 まるでちいさなコドモだったときみたいだ。
「あのね、パパ……びっくりしないでね?」
 少しだけ照れくさそうに下を向いた彼女の様子に、少しばかり不安がよぎる。
 ……まさか、何か。
 こう、オトナの階段的なものを登ってしまったのではないだろうか、なんて。
 そりゃ、ぼくとみぬきは密な親子関係を築いてきたと思ってるし、
 なんでも隠さないで教えて欲しい、ってことも、ちゃんと話してあるけれど。
 まさかまさか。だって、目の前にいるみぬきは、成長したといってもやっぱりコドモだ。

 ……でも、考えすぎだとしたらかっこ悪いことこの上ない。
 なんとかポーカーフェイスで押し隠して先を促すと、みぬきはこほんとひとつ咳払いをして、顔を上げた。
「えっと、みぬきね、B……」
「び、B!?」
 想像外の言葉に、思わず声が裏返る。
 え、あれでしょ?ABCのBとかって、あれだよね?
 いやいやまだ中1だぞ、Bとかありえないから!
 完全に取り乱したぼくに、みぬきが追い討ちをかける。
「そう、Bだったの」
「!?」
 今度こそ、ぼくは崩れ落ちた。

 いつかは来る日だってわかってたけど。
 でも、まだまだ先だと思ってた。まだまだコドモの彼女を見守りつつ、
 巣立っていく日のためにゆっくり心の準備をしようと、そう考えていた矢先だった。
 どこの馬の骨が、うちのかわいいみぬきに、あんなことやこんなことを……!

「そうなの、みぬき、びっくりしちゃって。だから、新しい下着が欲しいなって……あれ?パパ、どうしたの?」
 きょとんと首を傾げたみぬきに見下ろされて、ようやくぼくは冷静さを取り戻した。

 その後、有無を言わさず下着売り場に連れて行かれる羽目になって。
 自分の勘違いをいたく恥じ入ったり、改めて思わぬ成長に驚いたり。
 でもやっぱりまだまだコドモだと、そう思いたかったり。

 おとうさん5年生は、なかなか複雑……っていう話。

《10月28日 ABCの日》






10:

※4ネタ注意

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ナニ、その手」
「今日が何の日かわかってるかい?刑事くん」
 差し出された手を横目に溜息をつくと、いけ好かないアイツがふん、と鼻を鳴らした。

「今日はハロウィンだよ」
「ああ、そう?アタシ生粋の日本人だからね、よくわからないなあ」
 本当はわかっていて、わざとすっとぼける。
 向こうだって、アタシが留学してたってことくらいとっくにご存知のはずだ。
「そんなくだらない話だったら、帰りたいんだけど?」
 今アタシの手の中には、たった今この目の前の男から貰った資料がある。
 過去の類似事件の資料。きっと今回の事件で役に立つからと、
 わざわざ電話をよこしてくれたのだ。こっちだって暇じゃないんだし、
 それはコイツだって同じだろう。誰かに届けさせればいいのに。
「……すっとぼけないで欲しいな、刑事くん」
 あ、見逃してくれてたと思ったけど、ダメだったか。
「何よ」
 唇を尖らせて、睨んでみる。
 おかしそうに笑ったコイツは、もう一度あたしの目の前に手を差し出した。
「お菓子。くれないの?持ってるでしょ?」
「……持ってるわよ?けど、アンタにあげる義理はないわ」
「それは悪戯してもいいってこと?」
「は!?んな訳ないでしょう、バカじゃないの?」
 にやにやと笑うバカ野郎の頭を軽く叩いて、踵を返した。
 直属じゃないにしろ、上司の頭を叩くなんて懲罰モノだ。
 でも、こいつは絶対に笑って許してくれる。そう思ってるから、つい手も出てしまう。
 かつん、と一歩足を進めたところで、ハンドバッグの肩紐を軽く掴まれる。
 振り返って睨みつけると、やっぱりソイツはニヤニヤ笑っていた。
「何すんのよ!」
「ん?お菓子をくれなかったから。悪戯」
「……コドモじゃあるまいし」
 溜息が出る。軽く頭を振ってもう一度歩き出すと、今度は肩を掴まれた。
「ちょっと!」
「じゃ、オトナの悪戯でもいいの?」
 肩を掴んだ手に、ぐっと引き寄せられる。
 バランスを崩しかけて、すんでのところで留まった。
「アンタ、何考えて…!」
「どうせ悪戯なんて許してくれないだろ?だから、お菓子を頂戴って言ったんだけどな」
 いつの間にか、腕が身体に回されている。
 まるで抱き締められてるみたいな体勢だけど、
 そんなこと、絶対に認めたくない。
 なんでこんなヤツに、こんなふうにされなきゃいけないの?
「じゃ、持ってけばいいじゃない、この中に入ってるんだから……」
 鞄を掲げてみたけど、やんわりと押し戻される。
「いや、もう遅いかな」
 不埒にも力を増してきた手が、どうしても振り解けない。体が動かない。
 期待したわけじゃない。
 こんなヤツって、今だって本気で思ってる。

 ……なのにどうして、アタシは。
 このいけ好かない男の腕の中で、されるがままになってるのかしらね?

《10月31日 ハロウィン》


 

(1〜5…2007.10.3〜10.20)
(6〜10…
2007.10.21〜2008.5.10)

後半の分、半年以上放置ですみませんでした。

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