1:
「あれ、真宵ちゃん。何これ」
外出から帰ってきたなるほどくんが、事務所の応接机の上にあたしが転がしておいたモノを指差して、首を傾げた。
「あ、それね。なんかよくわかんないけど、事務所で持っててくださいって」
なるほどくんがルスのあいだに知らないオジさんがやってきて、うわ、直接事務所に来るお客さんなんて珍しッ!ってびっくりしてるあたしに、ぽんとソレを手渡してくれちゃったのだ。
「…ヘルメット?」
「そ、ヘルメット。あと、腕章だってさ」
「わ、腕章!?」
ちなみに興味しんしんなお年頃のあたしによってその二つが入ってた袋はとっくに開封されて、中身をしっかりさらけ出している。
“**市北部町内第2自主防災会”
と書かれた腕章を手に取って、口元に手を当てたなるほどくんはふむ、と唸った。
……なんかなるほどくん、ちょっとみつるぎ検事に似てきたよなあ。
「あ、あれじゃないかな。防災の日だから」
「防災の日」
うっかりオウム返しに呟いてしまったあたしを見て、なるほどくんがちょっと笑った。
「そういえば、回覧板に書いてあった気がするよ、そんなことが」
「回覧板なんかちゃんと見てるの?マメだね、なるほどくん」
ていうか、回覧板が回ってることすら知らなかったあたしはカゲの所長としてどうなんだろう。
「で、ほかには何か言ってた?そのヒト」
「ううん、なんにも。ただ、持っててくださいねって」
「……結構おざなりだな、町内会って」
「あたしも、ちょっとそう思う……」
机の上にころんと転がったヘルメットと、適当に投げ置かれた腕章。
もしかしたら、何か災害が起こったときにはこれをつけて何かしてくださいとか、そういう感じのものなんだろうか。
「ま、持ってろってことなら仕方ないから……真宵ちゃん、それどっかにしまっといて」
「ん、わかった」
ひょいとヘルメットを拾って、さてどこにしまうべきかなとなるほどくんを見て。ちょっと、むくむくとあるコトを試したい衝動に駆られた。
そして興味しんしんなお年頃、承諾を得ないままにソレを実行する。
えいと背伸びをして、なるほどくんのアタマにヘルメットを乗っけてすっぽりとかぶせた。
「ちょ、何してんだよ真宵ちゃん!」
「んとね、なるほどくんのアタマでヘルメットがかぶれるのかなって思って」
でもかぶれたね、とにやっと笑うと、なるほどくんは憮然とした表情でヘルメットを取ってあたしに押し付けてきた。
……あ。
硬いヘルメットかぶって脱いでも、なるほどくんのトガリってのは健在なんだ。
うんうん、これはもうひとつ発見だったな。
《9月1日 防災の日》
2:
歳も距離も離れた妹の席替えやら体育祭やらのちょっとしたグチを聞き終えて電話を切ると、待ち構えていたかのように肩に腕が回され、ぐいと身体を引き寄せられた。
ついでに言うと電話の最中も顔を寄せてきたり、背中をつつかれたり頬をつままれたりとまるで年上とは、事務所ナンバーワンの敏腕弁護士とは思えないような所業だった。
「……もう少しおとなしく待てないんですか、子供じゃないんですから」
「うまいと判ってるコーヒーが冷めるのは本意じゃないんでな」
彼独特の妙な比喩表現にはまだ慣れなくて、苦笑する。
すると少し機嫌を損ねたのか、む、と眉を寄せた。
こうして二人の時間を過ごすようになって思うのは、私の目標であるところの「弁護士・神乃木荘龍」は彼の中の本当に一部分でしかないんだな、ということだったりする。
意外と自分のことに無頓着だったり、コーヒーを淹れるのは異常に上手いのにほかの家事となると平均より二歩三歩劣っていたりだとか。
……そして今みたいに、感情を言葉以上に態度に出す……ということも。
「まったく、妹にまで妬かないでください」
「クッ……アンタはオトコってものをまるでわかっちゃいねえな、コネコちゃん。今の状況で、悠々と他人とお喋りされて黙ってられるやつがいたら、ぜひともそいつにお目にかかりたいぜ」
ぴん、とおでこを弾かれて、赤面する。
すでに解かれたスカーフと、彼のネクタイがベッドの下に打ち捨てられている。
服こそ一応身に着けているものの、ファスナーが下ろされかけていたり
ボタンが全開だったりで……ええとその、つまり、そんなわけだ。
「ご、めんなさい……」
「まあ、いいさ。大事にしたい相手が多いってことは、悪いことじゃねぇ」
苦笑を浮かべた彼が、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「ただ、こういうときはちょっと、な……コネコちゃんの妹じゃまだネンネだろうから、こんな理由を話すわけにはいかないだろうが」
「……まあ、そうです……ね」
私は頷いた。なにせ、妹はまだ中学生だ。
姉として、見本となる身近なオトナとして、示しのつかないようなことはできない。
「そうだな……だが」
「……ん、ッ」
いつのまにかすっかり下ろされたファスナーの隙間から忍び込んでくる大きな手に翻弄されて、喉の奥から声にならない声が漏れる。
「コネコちゃんの妹が、俺にとっても妹と言えるときが来たら、その時は堂々と理由を話して、断ってもらうぜ……チヒロ」
続けられたことばは、熱を帯びた身体にも上手く届いて。
そんな日が来ることを夢見ると、その熱はただ熱いだけじゃない、
幸せななにかに形をかえた。
《9月6日 妹の日》
3:
※4ネタ注意
「パパ!」
「や、みぬき」
みぬきちゃんが病院のロビーで座ってへらりと笑う成歩堂さんに飛びついていくのを、オレは多少げんなりしながら見ていた。
「……今度はなにしたんですか、成歩堂さん」
「ひとを常習犯みたいに言わないでほしいな」
成歩堂さんはやれやれ、と肩をすくめるけれど、正直、心配して駆けつけたらたいしたことないってパターンも二度目になると慣れもあって、呆れるほかにないってのが本音だ。
「でもまあ、大丈夫なんですよね?いつものとおり」
「……ま、擦り傷作ったくらいでほぼ無傷だね。ご覧のとおり」
「……ホント、パパってスゴいよね……」
三者三様、いろんな思惑はあるだろうけれど、みんな揃ってふうと息を吐いた。
「ねえ、パパ。結局なんでケガしたの?」
「あ、うん」
成歩堂さんが、話し辛そうに頭を掻く。
「自転車、この間もらっただろ?あれに乗って、仕事に行ってたんだ」
「うん、それは知ってる」
「で、断りきれなくて、ちょっと酒が入っちゃったんだ」
「……自転車でも飲酒運転は飲酒運転ですよ?」
「まあ、そう言うなよ……でね、帰り道で猫が飛び出してきてさ」
「ねこ!」
「避けようとして、進路変更したら……その先に側溝があったんだよね。暗くて見えなかったけど、蓋もされてなくて」
「……で、落ちたんですか……」
「それを運悪く見てる人がいてね、随分派手な音立てて転んだように見えたらしくて。ちょっと眠かったし面倒くさいのもあって、暫く動かなかったのも悪かったと思うんだけど……絶対これは大怪我してるって、勝手に救急車呼ばれちゃったんだよね」
事件(?)の真相を語り終えた成歩堂さんは、しれっとしている。
本当に大怪我だったとしたら、その目撃者には感謝してもしきれないと思うんだけど。
「……っていうか、実際派手な音してたと思いますよ。よかったですね、無傷で……」
まあ、オレからの言葉はこのくらいにとどめておこうか。
面倒云々に関しては、もう、みぬきちゃんから普段口をすっぱくして言われてることだし。
「でもパパ、ほんと、気をつけてよね?次は無傷じゃすまないかもしれないんだし、パパひとりのカラダじゃないんだから!」
「うん、ごめんな、みぬき。次から気をつけるよ」
みぬきちゃんのビミョーなたしなめ方もどうかと思うけど、
二度あることは三度あるって言うしなあ、次こそほんとに大怪我するぞ、このひと。
そうなったら間違いなくオレは弁護士以外の仕事をさせられるだろうな、と思うと、次がないことを切実に祈らざるをえない。
頼みますよ、ほんと。
《9月9日 救急の日》
4:
※4ネタ(捏造)注意
「まさか、君がかような形で再びこの場に来るとは思ってもいませんでしたな」
「ま、そうでしょうね」
あの頃より随分とルーズな格好、お世辞にも真っ当とは言えない職業。
これはすべて、ぼくがいまだに法曹界とつながりがあると思わせないための、ぼくがこれまで積み重ねてきたモノを、彼にだけは悟らせないための策略だった。
……まあ、まさか、ぼくを、法曹界をよく知っているはずの裁判長までがぼくの裏の顔(というか、やっていることを考えたら表の顔なんだろうか)に気づいていないとは思わなかったけれども。
「あとは、無事に裁判が終わることを祈るのみですな。終わりましたら酒席でも用意して、労って差し上げないといけませんな、委員長殿」
「いえ、それには及びませんよ」
手を振って、厚意を固辞する。
「ぼくは名ばかりの委員長です。証拠品がものを言う世界に負けた人間が、証拠品だけでない制度をぶち上げた……今法曹界で現役の人間が旗を揚げるより、そのほうがセンセーショナルでしょう?話題性も大きいはずです」
「そんな……時というものは、かように人間を変えるものでしたか」
裁判長が、少し寂しそうに眉を寄せた。
また、言われた。
この7年間、近しい人たちから変わったと言われ続けてきた。
でも、自分ではそんなつもりはない。
年を重ねて少しだけ利口になって、上手に立ち回る術を覚えただけだ。
「ぼくは昔から変わっていませんよ、本質はね」
困っている人を助けたい。一人ぼっちにしたくない。救ってやりたいやつがいた。
そのために、ぼくはかつて弁護士になった。
そして今、弁護士としての資格を失ってなお、
ぼくの根底にあるその気持ちは少しだって揺らいでいない。
法が人を救うに足るものでなくなってしまったのならば、
それを改革していけばいい。
これもひとつの、発想の逆転だった。
世界中で、法に殺される人が少しでも減ればいい。
そして少しでもその助力となれるのならば、
ぼくは自分の持てる力すべてを注ぐことを、決して厭わない。
《9月13日 世界の法の日》
ごめんなさい、4-4、1回しかやってません……ムジュンは何なりとご指摘を……!<
/FONT>
5:
ぼくの家のタンスのすみっこには、ビニール袋に包まれた下着が鎮座している。
別にあやしいものではなくて、ただ成り行き上、手に入れてしまっただけのモノだ。
履かないのも捨てられないのもそれなりの理由がある。
だって、いくらあいつ本人が一度も身に着けたことがないとはいえ、恋人の下着を捨てたり使ったりなんて、できるはずがない。いろんな意味で。
……この際、一度履いたじゃないか、というツッコミは却下させてほしい。あの時はやむにやまれずそうしただけだし。
返す、という選択肢もあるのかもしれないし、借りてしまった以上はそうすべきなのかもしれないけれど今言ったようにぼくが一度とはいえ履いてしまった以上、それもできずにいる。
そんなわけで、ぼくの意思に反して、ぼくの家のタンスの中には
御剣は一度も履いてない(そして、ぼくが不可抗力で一度だけ履いた)下着が収まっている。
そんなある日。
くたびれてきたトランクスを新調でもするかと量販店の下着売り場に赴いて、いつもと同じように3枚1000円のコーナーで適当な柄物を3枚物色したところで、ぴんと閃いた。
実物を返せないなら、新しいのを買って返せばいいじゃないか。
「……うわ、ぼく、バカだな」
実に2ヶ月もこんなことに気づかなかった、そのことにちょっと凹む。
今までトクベツ見たこともなかった端っこの棚に移動して、物色を始めた。
「はい。こないだはありがとう」
ぼくがあの日、結局量販店以外にもいくつも足を伸ばして何時間もかけて吟味したモノの入った小さな袋を差し出すと、御剣は怪訝そうな顔でぼくの顔とその袋を交互に見た。
「……なんなのだ、これは」
「なにって……前、大雨の日にぼくパンツ借りたじゃない?お返しに新しいの買ってきた」
「ム……そんなこともあったか」
「うん、あったあった。遅くなったけど、ごめんね」
開けてみてよ、というと、御剣が素直に袋を開封する。
「気に入ってもらえるといいんだけど……」
ちょっとばかりじゃない不安を抱きながら、中身を手にした御剣の表情を伺う。
「……成歩堂」
「……うん」
数秒顔を伏せて肩を震わせていた御剣が、ゆらり、と頭を上げた。
うわ、顔怖い!顔怖いよ!
「なんのつもりだ、これは」
「だから、お返しだって、こないだの……」
「要らん!これを私に着けさせて、どうしようというのか、キミは!!」
眉間にヒビを走らせた御剣は、大声で叫ぶとぼくの数時間分の努力を思いっきり床に叩き付けた。
……うん、わかってたわかってた、予想はしてた。
言うよね?服を贈るのは脱がすためだって。
ソレが下着ならなおさら下心満載に思われるよな、そりゃ。
とりあえず、打ち捨てられたレース模様のシースルービキニ(薄赤色)を拾い上げて、
絶対似合うのになあと呟いたら、御剣の鉄拳が後頭部に飛んできた。
《9月14日 メンズバレンタインデー》
男性が女性に下着を贈って愛を告白する日だそうで。パンツ大作戦(仮)、これにて終了です(笑
6:
ミカンをすぱりと横半分に切り離したような意匠の腰掛けに座り、根を張ったようにまんじりと動かぬままで時間を過ごす。
時折足元を突いてくる鳩どもにマメを恵んでやると、わらわらと寄ってきてはマメを啄ばみ、なくなるとまた離れてゆく。
寄りあい懐いてくれているようでいて、あやつらはただ腹を減らしているだけだ。
別段、ワシでなくても、餌さえくれれば誰だっていいに決まっている。
ワシがレジスターでムリヤリ笑顔を浮かべようが浮かべまいが、
もっと言えばワシ以外の別の人間がレジスターに立とうが、
腹を減らした若人はハンバーガーを買いに来る。
自分でなければ、と、技を見込まれた仕事が恋しい。
それは、間違いなくワシでなければ出来ないことだ。
代わりのいない、自分にしか出来ないこと。そういうものが欲しい。
「……おじいちゃん、ここにいたんだ」
もみじのようなちいさな手が眼前に差し出される。顔を上げると、孫たちが立っていた。
「おかあさんがおじいちゃんよんできてって、だから」
「ワシがいなくたって、別にいいじゃないか」
息子夫婦がいて、この子たちがいて。それで家族の形は出来上がっている。
ワシが入らなくても、この家族は機能していく。
「ダメだよ」
くい、と、無理やり手を引かれる。
「おとーさんとおかーさんとおねーちゃんと、じーちゃんがボクのかぞくだよ」
「うん、そうだよ」
だから、と、ちいさなふたつの手がワシの手を引く。
「いっしょにいこ」
「ね」
野に咲くちいさな花のように、孫たちはワシに向かって笑いかけた。
この子たちにとっての祖父は、ワシだ。
それは誰にも代わることの出来ない、ワシだけの肩書きだ。
こうして家族として想われている、それに何の不足があろうか。
「……そうさな」
ミカンから腰を上げると、周りをうろうろしていた鳩たちが一斉に飛び立った。
いつもはワシの孤独をはやし立てるように聞こえていたその羽の音も、
今日は、まるで違うもののように聞くことができた。
《9月17日(第3月曜日) 敬老の日》
7:
※4ネタ注意
「……あ。パパ!赤とんぼだよ!」
ちょっと興奮気味のみぬきは、ぼくとつないでいないほうの手でラベンダー色の空をすいと横切る赤い影を指差した。
「もう、そんな季節か……早いな」
「ついこの間まで、セミがうるさかったのにねー」
ラベンダーから薄い藍色、そして宵闇に変わってゆくグラデーションを眺めながら、その中を飛び交う赤とんぼの下を、ゆっくり歩く。
つないだほうの手が軽く前後に振られて、少しだけ気恥ずかしい。
こんな仕草も、ぼくとみぬきが親子になったときからずっと変わらない。
来年は高校に上がろうというのに、こんなにいつまでもコドモみたいでいいんだろうか?
……まあ、びっくりするほどオトナっぽくなって、どうしようもないオトコにひっかかったりするよりは安心だけども。
彼女ももう年頃だって頭ではわかってるのに、それでもやっぱりそういう心配をしてしまうのは男親なら仕方のないことなんだろうと思う。
そしてぼく以外にも、同じように彼女のことを想っている人間がいる。
……正確に言うと、「いた」。
「……パパ、ぼーっとしてる」
「ん?そんなことないよ」
咄嗟に口元に微笑みの形をつくり、柔らかい髪を撫でてやる。
すると彼女は安心したように、さっきまで口ずさんでいた童謡の続きを歌い始めた。
ぼくもつられて、歌声を重ねた。
決してうまくはないけれど、娘とふたり、手をつないで散歩をしながら歌をうたうのは何にもかえがたいしあわせだ。
今は、十五でお嫁に行くような時代じゃない。
もっともっと、ぼくの元で大事に育ててあげたい。
それは、ただ可愛くて大切で手放したくないからじゃない。
この空の向こう、きっとどこかで見ているはずの“彼”に恥じないように。
いつかぼくの手を離れるときに、喜んで祝福してくれるように。
見る間に空のラベンダー色は面積を縮め、宵闇が広がってゆく。
思わず立ち止まって空を見上げると、さっきまであんなに飛んでいた赤とんぼはまるで消えてしまったかのように跡形もなく、まるでその代わりだとでも言うように、一番星がちかちかと光を放っていた。
つないだままのみぬきの手に、きゅっと少しだけ力がこもる。
「……“パパ”、みぬきのこと、ちゃんと見ててくれてるかな」
同じことを考えていたから、それがぼくのことじゃないことはすぐにわかった。
「見てるよ。いつだって、絶対見てる」
みぬきのちいさな手を握り返して、ふたりで空を仰ぎ瞬く星を眺める。
その光がぼくには、彼が笑っているように見えた。
「……うん。みぬき、しあわせだよ。パパがふたりもいて」
微笑みとともにもう一度握り返された手を、ぼくは、しっかりと確かめるように握った。
《9月20日 空の日》
8:
普段こそカラスの行水と表現するのがもっとも適切と言わざるを得ないほどの短時間で入ったかと思えばすぐに体中から水滴を滴らせて飛び出してくる男が、20分経っても風呂場の中に篭ったまま姿を現さなかったことに少々の疑問を覚えつつも漫然と眺めていた雑誌の記事に気を取られ、すぐにそのことは忘れた。
だが記事を読み終え時計を見やったときに、その短針がすでに男がバスタオルと代えの下着を手に風呂場に向かってから30分以上の経過を示していると気づいた瞬間、私の足は勝手に風呂場へと向かっていた。
脱衣所につながるドアを開けても、予想した姿は見えない。
最悪の想像が一瞬だけ頭の中を過ぎるが、まさかこの男に限って、それはありえないだろう。
なにせ、何度も死に掛けては生還してきた男なのだ、あらゆる意味で。
半透明の擦りガラス様のドアをこつこつとノックすると、中からはシャワーらしき水音が聞こえる。
「成歩堂?」
呼びかけるが、返事はない。
水音で聞こえないのか、それとも、本当にまずい状況下にあるのか。
それを一刻も早く確認するべく、ドアに手をかけた。
入浴時、彼はいつも鍵をかけない。それをあるとき問いただしたら、「別にいつでも入って来ていいし」などという妄言が帰ってきたので、余りの馬鹿馬鹿しさについ黙殺したのだが、今はそれが有難い。
……と、思ったのだが。
それが気のせいであったことを、全身に降りかかるシャワーの洗礼で思い知った。
「うわ、ごめん、御剣!」
前髪から滴る雫越しに風呂場の中を見ると、片手にスポンジ、片手にシャワーのノズルを持った真っ裸の成歩堂が、慌てて水栓を捻り水を止めているところだった。
傍らに、風呂用洗剤のボトルが転がっている。
「……何をしていたのだ」
手近なところに積まれていたタオルを1枚取って、ぼたぼたと滴る水滴を拭く。
私から不穏な空気を感じ取ったのか、成歩堂が半歩じり、と下がった。
「そ、そうじ……」
「……それは、今しなければならない火急の用なのか?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど……ただ、そういえば最近やってないな、と思ったら気になっちゃって」
成歩堂は、それだけ言うとばつが悪そうに下を向いた。
確かに、決して新しくないこの男の住処はところどころ年季の入った汚れが染み付いている。
まめに掃除をすることで、なんとかこざっぱりとした雰囲気を保てている事も、知っている。
そしてそれが、こうして度々訪れる私が不快な思いをしないようにという気遣いであることも。
「……ごめんね、怒ってる?」
びしょびしょになっちゃったね、と、的外れなところを心配された。
「怒っては、いない」
そう。
ただ、少しだけ、ほんの少しだけ、心配だっただけだ。
それをどう伝えればいいのかわからず、知らず言い捨てるような口調になる。
それでも、成歩堂はわかってくれたようだった。
浴室から濡れた手を伸ばし、私の手を引くと照れたように笑う。
「このままだと、御剣風邪引いちゃうし。ぼくもちょっと冷えたし。お風呂もきれいになったことだし……ほら、だからさ」
ね?と小首を傾げられて、そんな仕草を大の男がしても見苦しいだけだというのに。
……それより何より、普段ならこんな馬鹿馬鹿しい話に乗る私ではない。
しかし今日は、どうしてだか絆されてしまう。
濡れて張り付くシャツを脱ぎながら、今日だけだからなと小さく呟いた。
《9月24日 清掃の日》
9:
「や、やめてくださーーーーーーーーーーーーーーーーい!!」
どるん、と低いエンジン音を響かせて、軽くスピンさえしながら裏路地へ滑り込むと、タンデムシートに乗っていたユーサクくんが颯爽と飛び降りて大声で叫んだ。
「な、なんだなんだ!?」
「バカ、顔を見られないうちに逃げるぞ!」
黒ずくめの男たちが、私達の入り込んだ裏路地よりもさらに細い路地を通って消えてゆくのをヘルメットのシールド越しに眺めて、ふうと一息ついた。
……顔を見られないうちにって言うけどさ。
実は、お互い顔合わせてるんだけどね。一回だけだけど。
そう思うと、ちょっとだけ罪悪感。
「おつかれ、ユーサクくん!」
「うん、おつかれ、まれかちゃん」
バイクにまたがったまま右手を上げて、軽くハイタッチ。
これで、ここでの仕事は終了だ。あとは、いろいろと面倒くさいことになる前にここを立ち去るだけ。
「じゃ、行こっか」
「そうだね」
よいしょとシートに跨ってアタシの腰に回るユーサクくんの手の感触を確認すると、誰もいなくなった路地裏を一瞥して、バイクを発進させた。
「ねえ、次はー?」
最初の信号待ちの間に、軽く振り向いて確認する。
「次はねー、1時に3丁目のS銀行北支店!」
「うわ、真逆じゃないっ」
慌てて、直進レーンから無理やり右折レーンに移動する。
深夜なのが幸いだ。これが昼間だったら、間違いなく一発で御用だろう。
植え込みに刺さった道路標識を、アタシは横目でちらりと眺めた。
「ユーサクくん、ちゃんとつかまっててね!」
「う、うん!」
対向車はない。信号が青になる瞬間を見極めて、車体を傾け一気にUターンする。
「うわ!」
ユーサクくんの悲鳴を聞きながら、車体を立て直し落ちていたスピードを上げる。
タイムリミットはあと10分。待機時間やなにやらを考えると、後5分後には到着していたい。
やっぱり昼間だったら捕まっちゃいそうな勢いで、どんどんスピードを上げていく。
……ああ、やっぱりキモチイイな。
「まれかちゃーん!」
「なーにー!?」
風にあおられながら聞こえてきた声に、前を見据えたままで問い返す。
リミットはあと3分、既にメーターは規制速度を40キロほどオーバーしてる。
「ボク、まれかちゃんといっしょに仕事できて、すごく楽しいよ!」
「ありがと、アタシもだよ!」
夜の幹線道路、好きなバイクを好きなだけ飛ばせる幸せに、
背中に感じる大好きなダンナさまの体温と、いっしょに同じことをしてるって幸せ。
ああ、アタシ、ほんとに幸せなんだなあ!
《9月27日 女性ドライバーの日》
10:
ワンピースタイプのスーツに手をかけジッパーを引き下ろすと、かっちりとした衣服に隠された下着が露出する。今日は、白のレース。
外見の凛とした雰囲気と、甘く柔らかいイメージのギャップが悪くない……が、そんなことを口にしたら真っ赤になった彼女に叩かれて、今夜の逢瀬はそこで終了となりかねない。
似合っていると耳元でささやく程度に留め、額にこめかみに頬に唇にとくちづけを落とす。
ちいさくこぼれる吐息を飲み込んで、首筋から鎖骨へ、鎖骨から胸元へと辿る。
次に溢れ出した吐息が艶めいた声に変わる瞬間と甘やかな空気を楽しんでいると、無粋にも携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。
「……クッ……もう少しタイミングを計って欲しいもんだぜ」
「それは、無理だと思います……」
ぼやく彼女の声を背中に受けながら、スツールの上で鳴り続ける携帯を取るためにベッドを降りる。
表示されている番号には覚えがなく、一瞬だけ電話を取ろうかどうか迷う。
「ちゃんと出たほうがいいですよ、緊急の用事かもしれないんですから」
ベッドの上でシーツに包まった彼女が、唇を尖らせる。
「本当は出て欲しくないんだろう?コネコちゃん」
「……切れちゃいますよ、電話」
ため息に後押しされて通話ボタンを押すと、顧問先の企業からの会合の通知だった。
口では多忙を理由に丁寧に辞去してはいるものの、心の中は正直お見せできない状態だ。
肌を合わせることを憶えたばかりの若造じゃあるまいし。
自分でもそう思うが、イカれちまったものは仕方ない。
電話を続けながらも、ちらちらとベッドの様子を伺う。
お姫様も同業者だけあって事情は察してくれているものの、
あまり長く待たせるのはルール違反だろう。
なんとか電話を終え、大きく息を吐くとベッドに向かって踵を返した。
「悪い、待たせた」
本当は、こっちが待っていられない。
ベストを脱ぎ捨てネクタイを外すと、床に放り投げた。
いっそシャツも脱いでしまおうか、しかしそれはそれで格好がつかないような、と
これまた思春期の若造のようなことを考えていると、彼女がくすくすと笑う声が聞こえた。
「なんだ、コネコちゃん」
「センパイ」
シーツの中から白い綺麗な手だけをひょいと出して、にっこり微笑んで手招きをされて。
そんな姿を見せ付けられて、もうとっくにイカれてるっていうのに。
これ以上イカれちまったら、どうなっちまうっていうんだ?
それを考えるのは怖くもあるが、ニヤケちまうほど楽しくもある。
脱ぎかけたシャツはそのままで、オレは誘われたままに彼女のいるベッドに沈み込んだ。
《9月29日 招き猫の日》