「指先」本文サンプル

 


 古泉を見るととっくに上履きをしまい、靴を取り出しているところだった。迷っている時間はない。
「古泉」
 歩み寄りながら声をかけると、いくらか驚いたように古泉の肩が竦んだ。
「どうしたんですか」
「それは俺の台詞だ」
「さて、何のことでしょうか」
 とぼけるなよ。さっさと昇降口へ向かおうとする古泉の腕を取り、力ずくで止めた。
「離してください」
「断る」
 指先にぎり、と力が篭る。
「……痛」
「すまん」
 古泉の眉が歪み、俺は慌てて手を離した。もしこのまま逃げられたら、とも思ったがそれは杞憂だったようで、古泉の双眸がまっすぐに俺を向いた。
 久しぶりに見た瞳に友愛の情はなく、ひたすら何かを押し隠してでもいるような硝子のごとき冷たい色をしていた。
「あなたはそんな方ではなかったように思いますが」
「それも俺の台詞だ」
「………」
 古泉はもう抵抗する気はないらしく、黙って立ち止まっている。さらりと流れた髪が目の辺りまでを覆い隠し、表情は見えなかった。
「俺の何が気に食わなくなったのかは知らん。だが、そんなんじゃハルヒたちに気づかれるのは時間の問題だろうが。もっと上手くやれ。お前なら出来るだろ」
 なるべく語気を和らげてそれだけ言うと、俺は古泉の肩をぽんと軽く叩いた。
 これ以上のことを今言うのは得策ではないだろう。今は誰もいないが、いつ誰が来るかも知れない学校の昇降口で込み合った話をするのはマズい。
 今日はもうこれで終わりにしようと、俺も自分の下駄箱へ向かうべく踵を返した。
「……です」
 ぽそり、と何かを呟く声が届き、思わず振り返る。
「古泉?」
 俺のかけた声に反応する様子もなく、古泉は俯いたまま突っ立っていた。すのこの上で靴下履きのまま。
 少しだけ縮こまらせた足指の先が寒そうだ、なんて場違いなことを考えながら、ただじっと古泉を見ていた。
 下を向いていたその顔が、ふっと上がる。が、視線は下を向いたままだ。その表情はどこか傷ついているように見えて、俺は驚いた。
 こいつの笑顔以外の顔なんて、ましてこんな表情なんて見たことがないどころか想像だってしたことがない。
「どうした」
 いつまでも黙っている古泉にただならぬ気配を感じ、もう一度こちらから問いかける。何度も何かを言いかけるように口を半端に開いては紡ぐ、その様は非常に古泉らしくない。
 一体どうしたのかと思いながらその僅かに動く口元を見ていたのは、数分にも及ぶだろうか。やがて古泉はこくりと息を飲み、ようやく俺を見た。
「……だめなんです」
「は?」
 意味が分からない。遠回しな話口はこいつの専売特許でだいぶ慣れてはいるものの、さすがにこの一言で古泉の言いたいことを察するのは無理だった。
 古泉はそれでも更なる言葉を出すことを躊躇しているように、もう一度下を向いた。
「……ここでは言えないことか?どっか移動するか」
 無言で首を振られる。なんだ、よく分からん。頭の中がどんどんクエスチョンマークで埋め尽くされていく。買い物途中にいきなり機嫌を損ねて立ち止まった子供とその母親みたいになってるじゃねぇか。言いたいことがあるなら早く言いなさい。
 時間が遅いせいか誰も来ないのが幸いだが、誰かに見られたら体裁悪いことこの上ない。特に古泉のファンにでも見られたらコトだろう。
 暫く続いた静寂を破ったのは、辛抱できなくなった俺ではなく古泉のほうだった。
「こい……」
「近づきすぎたらだめなんです、気にかけられるたびに、あなたをもっと好きになってしまうから。そんなのは……『機関』の構成員たる僕には、許されないことです。ですからもう、必要以上に僕に構わないでください」
 下を向いたまま小さな声で、それでもはっきりと紡ぎだされる言葉は恐らく一言一句も違わず俺の耳に届いた。
 いきなり何を、という気持ちと、ああやっぱり、という気持ちが交差する。
 ああそうだ、「やっぱり」なんだよ。どこか予感はあった。気づかない振りをずっとしてきた。
 身体的には無駄に近づいてくるくせに、精神的には歩み寄ろうとしない。
 それは古泉なりのバランスの取り方だったんだろう。俺が無駄なちょっかいをかけなければそのバランスは崩れることもなく、こいつがこうして思いつめることもなかった。男が男に告白なんて、思いつめでもしなきゃとても出来ることじゃない。
 やっぱりあの日の第六感は正しかった。俺は、必要以上に古泉を気にかけるべきじゃなかったのだ。後悔しても時間は巻き戻すことが出来ず、その結果がこれだ。どんよりと重苦しい空気が俺たちの周りを覆っていた。
「……古泉」
「すみません、忘れてください。僕もこれで忘れることにしますので、どうかお気になさらず。ご忠告どおり、明日からはもう少し上手くやります」
 声が微妙に震えている。無理やりに笑おうとした口元が痛々しくて見ていられない。俺が目を逸らしているうちに古泉は踵を返し、出口へと歩いていく。
 古泉が下靴をたたきに置く音が、ぱん、と軽く響いた。


 

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