そして今年の春、おれは高校2年になる。
おれはいつものように携帯のアラームで目を覚ました。
7時30分。あったかい布団は恋しいけれど、今日だけは2度寝なんてできない。
のっそりと起き出してカーテンを引き、窓を開けて換気をする。
冬の冷たい空気の中に、少しだけ春めいた日差しが混じっていた。
こんな朝は、あの日のことを思い出す。
お姉ちゃんを窓越しに叩き起こして、遊園地へ連れ出したあの日のこと。
あれから4年もたつのに、記憶はどうにも鮮明なまま。
イコール、あの約束だっておれの中ではずっと生きていた。
身支度を整えて、姿見の前に立つ。
おれは制服じゃなく、昨日のうちに用意していたスーツに袖を通した。
ネクタイは、この1年でずいぶんうまく結べるようになった。
背だって、たかだか5センチで一喜一憂してたあの頃を思えば嘘みたいにでっかくなった。
いつの間にか声も低くなって、少しコドモじみてた髪は、すっきりと短く整えられて。
きっと今度は、卒業する彼女の隣に並んでも、誰も笑ったりしない。
それはきっとお姉ちゃんだって例外じゃないはず。
窓の外、向かいの部屋の様子を伺う。物音ひとつない。
きっともっと早くに、着付けのために家を出てしまったんだろう。
卒業式の場所はわかってる。時間も。
あとは予約してある花束を受け取って、卒業証書を手にしたお姉ちゃんのもとへ駆けつけるだけ。
…そして、おれが少しは大人になったってことを認めさせるだけだ。
イベントホールは卒業生と見送りの学生、そしてOBでごった返していた。
ざわめきと歓声。着飾った卒業生。
…合間に、まるで仮想パレードみたいな格好のヤツ。
ところどころで胴上げされて人が宙を舞ってる。つーかすげぇカオス。
この人ごみの中でどうやってお姉ちゃんを見つけようかと少し途方にくれたそのとき、
間違うはずのない、聞き慣れたあかるい笑い声が耳に届いた。
声がした方向に人を押しのけて進む。
間違いなかった。
何度か見たことのある山吹色の振袖に、濃い緑の袴。
赤みがかった髪は、軽く結い上げられ小花が散っている。普段とは違った姿。
おれは人並みの間から、ただ、見惚れてぼうっとしていた。
だから、まさか先に見つけられて、声をかけられるなんて思ってなかった。
「…くん、遊くん?」
「ん…、うわあああああああああああっ!?」
「うわーっじゃないよー、どうしたの?」
ほにゃっとしたいつもの笑顔を向けられて、ついいつものおれになってため息が出る。
「どうしたのじゃないよ、お姉ちゃん」
長い長いため息を、お姉ちゃんがちょっとわらう。やっぱり、かわいい。
「卒業おめでとーって言いに来たのっ。ハイ」
大きな花束を、ばさっとぶっきらぼうに渡す。お姉ちゃんはきらきらした笑顔でそれを受け取ってくれた。
「ありがとー、でも帰ってからでよかったのに」
「ううん、いいんだ。ちょっとおどかしたくてさ」
すっごく驚いたよ、と、にっこり笑ってくれる。
これだけでもう十分すぎるほどしあわせだけど、今日の目的はこれだけじゃない。
「あのさ、おね…」
「もー!こんな所にいたんですかー!写真撮るって言ったのに、探しましたよー!」
小柄なおねえさんと、ほかにも何人か、袴姿のおねえさんたちがぞろぞろ集まってきた。
お姉ちゃんがゴメンと謝ってるところを見るに、みんな友達みたいだった。
「ゴメン遊くん、ゼミの友達と写真撮る約束してて」
「あ、じゃあおれ撮ってあげるよ。カメラかして」
「ん」
おれがお姉ちゃんからカメラを受け取ると、わたしもわたしもとカメラが押し付けられた。
順番にシャッターを切っていく。
たくさんの花束。ピースサインと笑顔。
みんな同じのはずなのに、おれにはお姉ちゃんだけが輝いて見えた。
撮影が終わると、あわただしくカメラをそれぞれに返す。
みんな受け取ったそばから、挨拶を交わすとみんな別の方向へ散っていく。
最後に、小柄なおねえさんがおれの所に来て
「ごめんなさい、彼女に会いにきたんでしょう。あの子そういう事ぜんぜん言わないしわたしも聞かないから、知らなくて…お邪魔しました」
と、心底申し訳なさそうにつぶやいて、ぺこりと頭を下げるとどこかへ行ってしまった。
「…彼女」
彼女、って、言った。お邪魔しましたって。今。
…って、おれ彼氏ってこと?彼氏に見えたってこと?
「何にやにやしてるの」
「べっつにー」
お姉ちゃんに見つかって、少し気恥ずかしくなる。
…でも、もしかしたらチャンスかもしれない。
「お姉ちゃん…おれ、今さ」
「なあに」
「小柄なおねえさんに、『お邪魔しました』って言われた」
「ちよちゃんかな…お邪魔しましたって、なんだろ?」
鈍さは相変わらず、か。伝わるとも思ってなかったけど。
相変わらずのざわめく人波の中で、にこにこわらうお姉ちゃん。
人並みはめいめいが会話に夢中で、他の人たちの話し声なんて聞いちゃいないだろう。
言うなら今だ、と、おれのなかの何かが叱咤する。
「…お姉ちゃんの彼氏に見えたみたい。おれ」
ざわめきの中の、たったひとつのたわいもない言葉。
だけどおれとお姉ちゃんにとっては、大きな意味のある言葉。
すぐに、おたがいの言葉以外は耳に入らなくなった。
「遊くん」
「お姉ちゃんが高校卒業するとき、おれが告白したの、覚えてる?」
「忘れてないよ、忘れるわけない」
お姉ちゃんが少しだけ微笑む。
「…子供だと思って、煙に巻いたよね」
「そんな言い方」
「だって、そうじゃん…ねえ、お姉ちゃん」
「……」
まっすぐにお姉ちゃんを見つめた。お姉ちゃんも、おれを見つめ返す。
「おれ、背も伸びた。体も大きくなった。少なくとも、彼氏と間違えられるくらい」
「……」
「…おれ、少しは大人になったかな」
「…遊くん」
あのとき交わした言葉を思い出したのか、お姉ちゃんが息をのむ。
「おれがもう少し大人になったら、お姉ちゃん、彼女になってくれるって約束したよね」
「うん。した…ね」
「もう少しってどれくらい、っておれが問い詰めたら、もう少し大人になったら教えてあげる、って言ったよね」
「…うん」
「ねえ、お姉ちゃん」
お姉ちゃんの頬が、少し赤い。
おれがこれから何を言うのか、きっとにぶいお姉ちゃんでも、さすがにわかってるはずだ。
「今のおれには、教えられない?おれ、お姉ちゃんにとって、まだコドモ?」
「……んだ」
「え」
ぽそりとささやかれた言葉が聞き取れず、聞き返す。
お姉ちゃんは頬を真っ赤に染めて、おれに微笑みかけてくれた。
「こんなに大きくなっても、約束、忘れなかったんだ…」
「忘れるわけないじゃん。本気だって言ってたろ、おれ」
「でも、あの頃は」
「コドモだったから、そのうち忘れると思ってた?」
「うん…ごめんね」
「ごめんじゃ済まさない。ねえ、おれもう大人だよ」
「…そうだね」
「おれの、彼女になってよ…約束だよ」
あの頃、お姉ちゃんを見上げて、精一杯真剣に紡いだ言葉。
4年越しの今、少し下を見下ろすように、少しだけ微笑んで同じ言葉を紡ぐ。
…返事を待つ間に心臓が爆発しそうなのは、今も昔もかわりないけれど。
お姉ちゃんは、真っ赤になってもじもじと自分の指先とおれの顔を何度も見比べて。
そして、俯いて黙りこくったかと思うと――本当にかすかに、こく、と頷いた。
「…ホント?」
こくり。今度ははっきりと頷く。
「ホントに、ホント?」
お姉ちゃんの顔を覗き込むようにして、答えをねだる。
「…どんどん大きくなってく遊くん見て、ずっとどきどきしてた。ホントだよ」
「やったー!!」
周りにいる人たちがぎょっとした顔で振り返る。でもそんなことはどうだっていい。だって嬉しいんだ。
4年越し、ううん、もっと長い間こころに灯してきた恋が、ようやく実ったんだ。
今にも踊りだしそうなおれを見て、お姉ちゃんはまだ少し頬に赤みを残したまま笑い出した。
「ね、ホントなんだよね?昔みたいに茶化さないよね?おれと、付き合ってくれるんだよね?」
「そうだよ!もう…遊くん、はしゃぎすぎ」
そういうとこはまだまだコドモだね、と、のほーんとわらうお姉ちゃんを、ぎゅっと抱きしめる。
甘い匂いと体温を腕の中に感じながら、今日は隠しておくつもりだった思いが頭をもたげた。
人間の欲にはキリがない。
想いが伝わればそれでいいと思っていたはずなのに、あれもこれもとどんどん欲張りになっていく。
「…あのさ。お姉ちゃん」
きっと唇を結んだ。
これからおれが何を言いたいかをおぼろげに察したのか、お姉ちゃんも真剣な顔でおれを見る。
「遊くん」
「おれ、お姉ちゃんと」
続こうとした言葉は、お姉ちゃんがおれの唇に押し当てたひとさしゆびで遮られた。
「ストップ。先にわたしの話、聞いて」
「…なに?」
「わたし…これから行くところがあるんだ」
「あ」
そっか、卒業式だもんね。
他の、友達とかと約束があったっておかしくないよね。
「そうだよね…ごめ」
「違うの、最後まで聞いて?…そこに、遊くんも一緒に来てくれないかな」
…そして、おれとお姉ちゃんはホテルの一室にいた。
お姉ちゃんが、夜の謝恩会までの着替えと休憩のためにデイユースを予約してたんだって。
今、お姉ちゃんはシャワーを浴びている。
おれは上着を脱ぎネクタイを緩め、ベッドに腰掛けてテレビを見ていた。
落ち着かなくて、何度もチャンネルを変える。
ホテルといっても、ごくごく普通のビジネスホテルの、狭苦しいシングルルーム。
バスルームから漏れる水音が、どれだけテレビの音量を上げても耳に届く。
「…あーっ!もー!」
ぐしゃぐしゃと頭をかきむしって、背中からベッドに倒れこんだ。
今、ドアひとつ隔てて、生まれたままの姿になったおねえちゃんがシャワーを浴びてる。
そう考えただけで、想像してしまう。どうしようもなくなってしまう。
ほんのひとかけらの理性が、おれの中で頑張ってる。これがはじけ飛んだら、もう何をするか自分でもわからない。
(なんとか、収めないと…)
ソコが自己主張をはじめたことには、水音が耳について離れなくなったときから気づいてた。
今どうにかしないと、ヤバイ。
おれは本能でそう悟り、ゆっくりとベルトを緩め、ジッパーの金具に手をかけた。
そのとき。
「ゆ…遊くん…っ」
「なっ、何っ!?」
心臓が飛び上がる。気づけば、水音は止まっていた。
ドアは閉まったまま足元から明かりが漏れている。見られたわけじゃない、大丈夫。
「どうしたの、お姉ちゃん」
もうほんと今更だと思うけど、冷静を装って声をかける。
「き、着替え…持って入るの…忘れた…」
そのどうしようもなく情けない響きに、がくんと肩の力が抜ける。
「着替えって…お姉ちゃん…」
「カバンに入ってるの…今から取りに出るから!目瞑ってて!絶対だからね!?」
「わ…わかった…」
必死な響き。おれは言われたとおりに目を閉じた。
何度も「いい?」と確認されて、何度も大丈夫と返事をして。
そしてようやく、キイ、と扉が開く音がして、お姉ちゃんが出てきたのがわかった。
薄目を開けて見てみよう、いやダメだ、でも見たい、でも約束した…
葛藤で頭の中がいっぱいになる。ついでにズボンの中もいっぱいいっぱいだ。
もうだめだ、怒られたっていい、おれもう大人だって言ってるのに
こんな状況に持ち込んどいて、何もされないって思い込んでるお姉ちゃんが悪いんだ!
意を決して、ほんの少しだけまぶたを上げる。
さっきまで見ていた部屋がぼんやりと霞んで見える。その片隅に、肌色の影。
まだよく見えない。もうすこし目を開けようとした、そのとき。
両頬を包まれるような感触。そしてすぐに唇にふわりとやわらかい熱が降りてきて、一瞬で離れた。
(え)
驚いて、思わず目を開けてしまう。
おれの目の前で、バスタオル一枚のお姉ちゃんがわらってた。
「こら。目、瞑っててって言ったでしょ」
「お…お姉ちゃん…」
くすくす笑いながら、またお姉ちゃんが近づいてくる。これ、夢じゃないかな。
ベッドに倒れこんだままうたたねしてて、都合のいい夢を見ちゃってるんじゃないだろうか。
「夢じゃないよ」
お姉ちゃんが、おれの頭の中を盗み見たみたいに囁く。
「お姉ちゃん」
「…ね。さっき式場で言いかけたの、こういうこと?」
そういうと、おれが返事をするよりも早くまたキスをする。
お姉ちゃんの舌先がちろりと唇をなぞり、すっと離れていった。
「……」
呆然として動けない。ことばが出てこない。
確かに、キスしたかった。でもそれは、おれなりにいろいろ考えてて、こうしたいなーってシチュエーションなんかもあったりして。
でも、全部がぶっ飛んだ。
まさか、あのお姉ちゃんが、こんなふうに仕掛けてくるなんて思ってなかったから。
ずっと黙ったままのおれをどう思ったのか、お姉ちゃんがおずおずと口を開く。
「ごめん、もしかして…こういうの、嫌だった?」
「嫌じゃない」
それだけ言うのが精一杯だった。
「嫌じゃない、だから」
「…だから?」
ああきっと今おれ真っ赤だ。カッコ悪い。
こんなに大きくなったのに、中身は何も変わっちゃいない。もっと大人になりたいのに。
こんなふうに翻弄されるんじゃなくて、おれがお姉ちゃんを翻弄してやる、なんて思ってたのに、現実はまるで逆。
すべてが予想外の展開で、体も心ももう我慢の限界だった。
「もっと、したい…ねえ、させてよ、お姉ちゃん」
言うなりおれは、お姉ちゃんの肩をつかんでがむしゃらにくちづけた。
「ああー、なんか…いまさら恥ずかしくなってきた」
「ホントにいまさらだよ」
髪の先まで布団にもぐって出てこないお姉ちゃんと、少し余裕が戻ってきたおれ。
テレビが淡々と夕方のニュースを読み上げているのを、二人並んで聞くともなしに聞いていた。
「…お母さんがね」
お姉ちゃんが、少し布団から顔を出した。
「遊くんが卒業式の日程聞いてきたって言ってたから。来ると思ってたんだ」
「そ、そう…なんだ」
おばちゃんめ、内緒にしてくれって言ったのに。
「だからね、わたしもできるかぎりのことしてみました。ホテル取るとかはやっぱり大人のすることかなって」
えへへ、と舌を出すお姉ちゃん。大人なんて言いながら、その表情はあの頃と何も変わらない。
「おれだって大人だよー」
「まだ未成年だけどねー」
「…う…」
「あはははっ」
今度はおれが布団にもぐる番だった。屈託のないお姉ちゃんの笑い声が聞こえる。
おれが主導権を握れるようになるのは、どうやらまだまだ先のことみたいだ。
「…ね。お姉ちゃん」
「なあに?」
「もっかい、キスしていい?」
「…いいよ」
小さな窓から差す夕陽に照らされたお姉ちゃんが、ふわりと微笑む。
柔らかな髪、綺麗にカールしたまつげ、すべらかな頬。何もかももう全部がおれのもの。
順番に指を滑らせて、最後にたどり着いたつややかな唇に、ゆっくりと唇を重ねた。
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