温泉症候群
ひんやりとした夜気と、少し熱いくらいの湯が心地よい。
目を閉じてほうと溜息をつくと、少し離れたところで岩肌にもたれている古泉がくすりと笑った。
さて、どういうわけだか俺たちは銭湯に来ている。
そしてこれまたどういうわけだか、俺と古泉が漬かっているのは女湯である。賢明な方はお分かりだろう。
俺と古泉は、どういうわけだか女性化してしまったのだ。さらに言うなら3人娘も男性化、
つまりこのSOS団において、男女が逆転してしまったという訳だ。やれやれ。
「……どういうわけも何も、涼宮さん以外に原因はありえませんよ」
古泉が苦笑する。まあ、そうだろうな。
……しかしだ、これは戻ることがあるのかね。
露天の壁の向こうから、少し低くなったものの相変わらず可愛らしい朝比奈さんのご無体な声が聞こえる。
ハルヒ(と今のあいつを呼んでいいのかは分からんが、便宜上そう呼ばせてもらおう)の奴は裸の付き合いがどうのと言っていたから、間違いなく無体を強いられているところだろう。
元の身体のままなら守って差し上げることもできただろうが、今の俺にそれは無理ってもんだ。
俺は自分の身体を見下ろし、わずかに、でも確かに隆起したふくらみに触れた。
しかしまあこんな身体でも意識は男な訳だから、どっちを向いても女の裸満載の更衣室やら洗い場やら
大浴槽やらは大変に肩身が狭く、結果俺たちは人影まばらなこの露天スペースへと逃げてきたわけだ。
折角だから目に焼き付けておこうなんて不埒な考えにはいたらなかった。そんな余裕なんてあるわけないだろう?
「……まあ、ずっとこのままということもないでしょうから、ちょっと珍しい経験ができたと思っておきましょう」
「お前は暢気だな」
呆れて視線を投げかけると、古泉はいつもと寸分違わないニヤケ面だった。にもかかわらず受け取る印象がだいぶ違うのは、やっぱり今の古泉が世辞抜きで美少女の部類に入るからだろうか。
ぱっと見ただけなら天使の微笑を浮かべる美少女は、すす、と音もなく湯の中を進んで俺に擦り寄ってきた。
「まさか貴方のそんな姿が見られるとは思いもしませんでしたからね」
ニヤケ面を浮かべた古泉と肩が触れ合う。さっきからなるべく見ないようにしていた肢体が否応なしに目に入る。
「俺なんか見てもつまらんだろう、自分でも見とけ」
そんじょそこらのグラビアなんか目じゃないぞ。
おかげで俺は、巨乳が湯に浮くという都市伝説(と表現するのは適切ではないだろうが、実際にはありえないと思っていたという意味であえて使わせてくれ)を目の当たりにしている。こんな状況で知りたくはなかったがな。
「僕はあなたを見てるほうが楽しいですよ」
黙れ変態。
ひと睨みしてやると、古泉は肩をすくめて少しだけ俺から離れた。
壁の向こうからは相変わらずの喧騒が聞こえる。普通の男はあれだ、そんなセクハラはしないもんだぞ。
せいぜい洗い場でちらりと横目でチェックするくらいだ。そして心の中でガッツポーズを取ったりうなだれたりする程度だ。
「凄いですね、涼宮さん」
「ああ」
女でも男でもあいつの本質は変わらないというわけか。
それとも朝比奈さんがいぢめてオーラでも出してるというのか?どこぞのシマリスじゃないんだぞ。
「裸の付き合いといえば、やはり彼女の中ではお約束なんでしょう」
……こんなのが。
そういうや否や、俺の背後から古泉の腕が伸びてきた。いつの間にバックを取りやがった!
「ちょ、古泉……!な、ひゃうっ!」
何してる、やめろ、と用意した言葉は声にならなかった。かわりに出たのは、情けないほどに甲高い声。
背後から伸びてきた色白な古泉の手が俺の胸に回り、俺のささやかなふくらみを無遠慮に掴んでいた。
「さっきから思ってたんですよ、いい形ですね、あなたの胸」
「だ、からって……触る必要はないだろ……!」
掴んでいるだけだった指が、やわやわと動き出す。
「でしたら、等価交換です。僕のも触ってよろしいですよ」
ちっともよろしくない!ええい背中に押し付けるな!古泉だって分かってても今はないものが勃ちそうになったじゃねえか!
くすくす笑った古泉が、俺の肩越しに頬を寄せてくる。
「赤くなって可愛いですよ。でも、のぼせないでくださいね……我慢できなくなりそうですので」
ちょっと待て古泉、一体なにが我慢できないって言うんだ!
というか、お前がのぼせるようなことをしてくるのが悪いんだろうが!
暴れたせいで頭のタオルがはらりとほどけて、湯の中へ沈んでいった。銭湯の方、本当に申し訳ない。
「やめろ、って!」
「……ッ!」
俺は古泉の魔手から逃れたくて、闇雲に肘を繰り出した。
どうやらそれは見事にヒットしたらしく、古泉は脇腹を抑えて蹲っている。今がチャンスとばかりに、俺は湯の中に落ちたタオルを拾おうと身を捩じらせ背後へと手を伸ばした。
浴槽の中にタオルをつけないでください。
一度でも銭湯に行ったことがある奴なら誰でも知ってる常識だ。
俺だって古泉のアホがこんなことさえしなければルールを破ることなどなかった。自慢じゃないが、俺は結構な小市民だ。
……と、手首が何者かにからめ取られる。いや、何者じゃねえな。そんなことするのは古泉に決まってる。
「ちょっとおイタが過ぎますね、あなた」
知らん。元を正せばお前が悪いんだろうが!
俺はただ、そこに落ちてるタオルが取りたいだけだ。看板見ろお前。
「それはすみませんでした。ですが、だからと言って肘鉄を食らわせてもいいという訳ではないでしょう?」
手首が軋む。動かせば動かすほど古泉の指が食い込んできて、俺は顔をしかめた。どうやら、力関係は男だったときと変わらないらしい。
叶わないと理解した俺は、潔く抵抗をやめた。古泉の手から力が抜ける。
「……本当に痛かったんですよ」
「すまん」
でも俺だって痛かったぞ、というのは言わないほうがいいだろう。余計こじれるだけだ。
「仮にとはいえ、今は女性なんです。その腹部を攻撃するなんて」
「悪かった」
そっと手を伸ばして、湯の中の古泉の腹を撫でる。
すべすべしてやわらかくて暖かくて、ああ、本当に悪いことをしちまったな、という気持ちが自然に沸き起こってきた。
古泉がくす、と笑う。
「……なんだか、妊婦の妻のお腹を撫でるお父さんみたいですよ」
「何を言ってるんだお前は」
孕めやしないだろうが。
古泉は、いいえ、と首を振った。
「この状態が1年継続すれば、あるいは不可能ではないかと」
まあ、可能性の問題で言えばゼロではないか。
しかしちょっと待て。その場合、お前は誰に孕まされるというんだ。
ハルヒか。長門か。もしや朝比奈さんか?それとも他の俺の知らない誰かか?
「……そんな顔をしないでください」
古泉が眉を寄せる。珍しくも笑顔以外の表情だ。
って、そんな顔を古泉にさせてしまう俺ってのは、いったいどんな表情を浮かべていたんだろうね。分かるような気はするが、認めたくはない。今はまだ。
「先程の話は、可能性の問題です」
ですからお気になさらずと、古泉は少し笑う。
「1年もの長い間この状態が継続することはないでしょうし、第一」
古泉はそこで言葉を止めて、今までのどんなときよりも顔を近づけてきた。
吐息が唇にかかる。だが俺は古泉を止めようとはしなかった。
それは先程の罪悪感からか……それとも。
「僕は、あなた以外の人と寝ようとは思いません」
こんなある意味で直球の台詞を吐かれても、嫌悪感どころか胸が甘く疼くなんてな。
もう認めざるをえない。俺は、古泉のこの言葉を嬉しいと思っている。
それはニアリーイコール、俺が古泉を好きだということに他ならない。
……まあ、まさか、こんな状況で気づくことになるとは思わなかったがな。
「そ、れは……」
言葉にするには、まだ照れが先立つ。
こういうのはお前のほうが得意だろ、古泉よ。
頼むからお前から言ってくれ。そうすれば、俺は頷くだけでいい。
多分今俺は、縋るような表情で古泉のことを見つめているんだろうな。
古泉の頬が少しだけ赤い。湯に漬かって温まっているからではないだろう。
少しだけ逡巡したように動いた古泉の唇が一瞬きゅっと引き結ばれて、
それはすぐにやわらかい微笑に変わった。
「僕は、あなたが好きですから」
胸が、どくんと跳ねる。
あなたはどうですか、と囁いて、古泉が俺の頬を手で包む。
ああもう、俺は間違いなくユデダコ状態だろうな。
やわらかく微笑んだままの古泉の前で、俺は長門ばりのちいさなちいさな頷きを返した。
瞬間、古泉の笑みが喜びの色を帯びる。それが嬉しくて、俺も笑顔になる。
近付いてきた唇に俺は慌てて周りを見回し、誰もいないことを確認するとそっと瞳を閉じた。
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