「御剣怜侍の憂鬱」本文サンプル


「……一局だけだからな」
「うん、充分。さんきゅ」
 ぼくのハッタリに気づいているのかいないのか、御剣はしぶしぶといった風情で了承するとぼくの右手に触れた。手を開くと、赤い駒が覗く。
「きみが先攻だな」
「あ、そうなの?」
 ひと勝負しろと執務室に押しかけてきている割に、ぼくはチェスに関しては定石本を一通り読んだくらいの知識しかない。具体的に言えば、意気揚々と駒を握りこんだはいいものの駒が青と赤の場合はどっちが先攻になるのか分からなかったくらいだ。
「まあ、ちょっと特殊な駒だからな。きみが知らずともおかしくはない」
 言いながら、御剣はデスクから椅子を引いてくるとどっかと腰を下ろした。
「さあ、始めたまえ」
「……ねえ御剣、それ、わざと?」
「何のことだ?」
 御剣は悠々と腰掛けたまま、にやりと笑った。ちくしょう、絶対わざとだ。
 部屋を見回したけれど、動かせそうな椅子はどこにもない。唯一腰掛けられそうなソファは動かせなくはないだろうけど、ちょっと重いし手間だろう……と、そこまで考えてぼくは発想を逆転させた。駒を倒さないようにチェステーブルを持ち上げソファのすぐ傍に移動させると、片足だけを行儀悪く乗せて半分だけ胡坐をかいた。
「御剣、こっち」
 ソファの空いたところをぽんぽんと叩くと、ぽかんと口を開けた御剣の顔がスローモーションで赤くなっていく。お、いいもの見たなあ。
「………」
 御剣が無言で椅子をデスクに戻して歩み寄ってくる。ぼくの叩いたところよりも少しだけ遠くに腰掛けると、ぼくと同じように片足だけで胡坐をかくように座った。
「よし、はじめよっか」
「手加減はなしでいいな」
「勿論」
 青いポーンをことりと動かしながら、ぼくは師匠の教えを思い出してふてぶてしく笑った。

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