September.01

※原作「エンドレスエイト」のネタバレ満載なので、未読の方はご注意ください※

 







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 長門言うところの15498回目のシークエンスを無事に突破して、俺たちは無事に9月へと突入した。例の最終日になんとか終わらせた宿題を引っさげて登校すると、休み前と何一つ変わらない光景が俺を迎え入れた。
 窓際の最後列、頬杖をついて窓の外を眺めているハルヒは、俺の姿を確認するなり挨拶もなしに唇を尖らせた。
「……ねえキョン、あたし、まだ夏休みのうちにやるべきことがあった気がするのよね」
「そうかい」
 でも、こうして9月になったんだ。そいつは気のせいってもんだぜ。
 何かやり残したことがある気がするってんなら、また来年までにそいつをリストアップしといてくれればそれなりに付き合うさ。
「それもそうね。キョン、あんたも何か思いついたら言いなさい!あたしの納得できるようなことなら、取り入れてあげないこともないわよ」
「ああ、考えとくぜ」
 倦怠感の残る体で自分の席に腰掛け、俺は頷いた。
 また何万回も夏休みを繰り返すなんてのはごめんだからな。

 こんな体験、一度で十分だ。

 


 ホームルームの最中から腹が減ったと繰り返しこぼしていたハルヒが号令と同時にダッシュで教室を出て行くのを見送り、のろのろと荷物を整頓し鞄を肩に担いだ。放課後、部室に足が向くのはもう習慣だ。自覚のない1万何千回もの繰り返しに妙に疲れたような気がしているが、実際に俺たちが過ごしたのは最後のシークエンスだけなのだから、別に必要以上に疲れているはずがあろうはずもない。精神的に多少は疲弊したが、それだって繰り返しを自覚していた長門と比べればそれこそミジンコ並の違いだろう。
 そんなことをつらつらと考えながら、噴出す汗を忌々しく思いつつ渡り廊下を歩いていると、見慣れた野郎が旧館の入り口で壁に凭れて立っていた。
「こんにちは」
「……ああ」
 夏休み後半、ずっと毎日のように顔突き合わせたのにこいつはうんざりしたりしないのかね。つーか、昨日だって会っただろ。
 忌々しいほど爽やかに笑いながら、古泉は俺のほうに歩み寄ってきた。
「随分と機嫌が良さそうだが」
「おや、そうですか?」
 ニコニコどころかニヤニヤ笑って近寄ってくる顔や腕を、鬱陶しいと振り払う。それでも古泉は何一つこたえていませんとでも言うような涼やかな笑みを浮かべた。
 どうでもいいが、なぜこいつは同じ条件化で汗ひとつかかないんだ。本当に人間かどうかすら疑えて来るぞ。
「まあ……炎天下の中で立ち話もなんですからね、部室に行きましょうか。話はそれからでも」
 否定する理由もないので頷くと、古泉の野郎はまるで淑女をエスコートする紳士のように手を差し伸べやがった。思い切りはたいてやると一瞬だけ眉をしかめ、それからすぐにまるで子供の悪戯を咎めるような表情を浮かべる。
「そんな目で見るな、気色悪い」
「僕は貴方の体が心配なだけですよ。大丈夫でしたか?その……もが」
 余計なことを言い出しそうになった馬鹿野郎の口を何とかふさぐことに成功した俺は、そのまま部室へと古泉を拉致した。あそこに行けば長門がいる。そこでなら、いくらこいつが真性のアホでも必要以上の妄言を吐くこともないだろう。

 ……と、まあ、そんな風に構えていた訳だが。
 甘かった、としか言いようがないな、俺も。

 もし数分前の俺に忠告してやれるのなら、そのさらに数分前の俺の思考をちゃんとトレースし直すようにと言ってやりたい。
 長門は15498回ものエンドレス2週間ワルツを自覚していた。あいつがいくら並の人間でないとは言え、そんな途方もない間同じことばかり(厳密には多少の差異はあったらしいが)繰り返していては、さすがに疲れもするだろう。よって、無事に終わらない夏をくぐり抜けられた今日くらい、あいつだって休みたいと思ったって不自然じゃないさ。朝比奈さんだって同じだろう。未来に帰れなくなるかもしれないという緊急事態を脱することができたんだからな。

 忙しなくノックをして開いたドアの向こう側、夏休み前となんら変わらない我らSOS団の部室は、もぬけの殻だった。

「……」
「……」
 揃って言葉を失った俺と古泉の胸中は、多分まったく違うものだ。
 それが証拠に、部室に誰もいないとわかった瞬間、古泉は部室のドアに鍵をかけやがった。
「おい、古泉!ハルヒが来たら……!」
「彼女なら足音で気づけます。ドアを開ける瞬間までに鍵を開ければいいことでしょう?それよりも」
 じ、と音がするんじゃないかと思うくらいに強い視線が注がれる。蛇に睨まれた蛙じゃないが、ぴくりとも動けない。
「……やめろ」
 乾く唇をなんとか動かして、負けじと睨み返す。だが、古泉は気圧されなかった。
「本当にやめて欲しいのなら、力ずくで止めてください。貴方なら不可能ではないでしょう?」
「……っ、く……」
 少しだけ高い位置にある瞳がすっと細められ、いつもとは違う真剣な表情が近づく。なまじ顔のつくりが綺麗なだけに、それは迫力さえあった。
「貴方だって、昨日は許してくださったじゃないですか」
「あ、れは……」
 逡巡している間に、ぐっと腰に腕が回される。
 抵抗しようと肩を掴むが、俺が古泉の身体を引き剥がそうとするより先に古泉が俺を腕の中に抱きこんだ。

 顔が近いどころじゃない。頬に、耳元にかかる息がくすぐったい。
 否応なしに、昨晩の記憶が蘇る。
 頬を覆うように添えられた古泉の左手が、熱い。
 汗ひとつかいてないくせに、こんなところだけ夏に毒されてやがる。

 昨日、延々と宿題を写し続けた右手がまだ少し痛い。
 あの出来事が、俺たちの終わらない夏を終わらせてくれたのだと信じてる。

 だが、もしも、という懸念はあった。これが本当に決定打になるのかどうか、自信はなかった。
 それは俺だけじゃない、朝比奈さんも、おそらくは長門も、そして古泉も。
 他に何か出来ることがないのか、思いつくことがあればギリギリまで足掻いただろう。

 ……あるいは。
 失敗すること、忘れる事を前提に、今しか出来ないことを実行しようとしたかも知れない。

 

 

 嵐の後のような部屋を見回して、見慣れない参考書を発見した。意外と乱雑な文字の書き込みがなされたそれを、溜息とともに摘み上げる。
「……あいつも、疲れてたってわけか」
 明日早目に学校へ行って、あいつの机の上にでも置いておけばいいだろうか。
 そう思っていたところ、ベッドに転がしておいた携帯が震えた。
「なんだ」
『すみません、僕です。申し訳ないんですが、ちょっとそちらで探していただきたいものがありまして』
「ああ」
 手の中の参考書をばらばらと捲り、書き込みの乱雑な文字を眇めた。こんな字を書く人間は、SOS団の中でもこいつしかいやしない。
「物理の参考書だろ、それなら今見つけた。明日、教室に届けてやる」
 大サービスだと自負して、参考書を机に放り出してベッドに転がった。クーラーのおかげで冷えた布団が、まだ昼間の熱さの残る肌に心地いい。
『それはありがとうございます……と、言いたいところなのですが』
 妙に歯切れが悪いな。まさかとは思うが、こいつが急遽必要だったりするのか?
『そのまさかです……僕としたことが、ひとつ、課題を忘れていまして』
「マジか」
 らしくない。
『面目ないです……』
 苦笑したような吐息が、受話器の向こうから聞こえる。
 まあ、古泉にだってたまにはそういうことはあるだろう。俺がそう言うと、また、すみませんと謝る声が聞こえた。
「今度、何か奢れよ」
 笑みを含んだ承諾の声とともに電話は切れ、俺は、部屋着のままで自転車の鍵を手に取った。

 俺の体力ゲージは、大パンチふたつぶんも残っちゃいないが。
 それでも古泉の家まで往復するくらいなら、なんとかなるだろう。

 ……そう思っていたのだ。
 古泉の家に到着して、チャイムを鳴らしドアが開き、見慣れない部屋着姿の古泉に部屋の中へ迎え入れられた、まさにその瞬間まで。

 

 

「……昨夜のあれは、賭けだったんです」
「よ、せっ」
 唇同士が触れ合いそうな距離まで、古泉の顔が近づいてくる。なんとか身を捩じらせて離れるけれど、すぐにまた距離を戻された。
「まさか、あんな見え見えの作戦に騙されるとは思っていませんでした。わかっていて、騙されてくれた……違いますか」
「な」
 そんなわけがないだろう。
 品行方正優等生の古泉一樹が、勉強会までしておいて宿題を忘れた……なんてことは、ハルヒの耳に届いたらコトだ。そう思ったから俺は、蒸し暑い夏の夜を、自転車をえっちら漕いで家まで行ってやったわけで。お前の言い分には断じて異議を唱えたい。
 いいから落ち着いて、俺を解放しろ。話を聞け。
「嫌です。だってあなた、逃げるでしょう」
 決して離すまいと力を増す腕を振りほどきながら当たり前だと怒鳴りつけようとして、俺は言葉を失った。
 そこにあったのは、いつもの作り笑顔でもニヤケ面でもなかった。

 ……お前、なんてバカみたいに幸せそうなツラしてんだよ。
 そんな顔見ちまったらもう、がむしゃらに抵抗するのがばかばかしくなってきたじゃないか。

「古泉」
 力が抜けて、されるがままになった俺をどう思ったのか。
 俺を抱きすくめていた古泉の腕は少し緩み、見上げたハンサム面はもう、いつもの古泉だった。
「思うんですよ。僕はね……きっと、繰り返しの自覚を持ったすべてのシークエンスにおいて、同じ行動を取ったのではないかと」
「……」
 俺は何も言えずに、微笑を浮かべたまま話を続ける古泉の口元を眺めていた。
「あなたは優しいですから、僕が多少暴走しても、それを受け入れてくださると思っていました。そしてそれは真実で……もし僕もあなたもそれを忘れたとしても、その瞬間の幸せな気持ちだけは真実ですから、それでもいいって思ったんです」
「……お前」
「今回のシークエンスで確定するかどうか、僕は正直半々だと思っていました。忘れられても良かったんです。そしてもし確定したら……それはそれで、その幸せな気持ちを持ち続けていられるんですから、僕にとってこれ以上の幸せはありません」
 待て待て待て。
 お前はそれでいいかもしれないがな、拝み倒されてケツ掘られた俺の気持ちはどうなるって言うんだ。
「本当に嫌だったのなら抵抗できたはずです。本気で抵抗されたら、さすがの僕もやめるつもりでしたよ」
 さっきも言いましたが、と、微笑みくんと化した古泉が、こつんと額に額を寄せてきた。
「聞かせてください。貴方は、僕のことが嫌いですか?」
「…………」
「ねえ」
 頬をすうっとなぞる手が熱い。胸が締め付けられるのは、昨夜のことを思い出すからだけじゃない。

「嫌い……じゃない」
「……ありがとう、ございます」

 それだけ言うのが精一杯だった俺を、古泉を、誰が笑えるって言うんだろうか?
 真っ赤になってるだろう頬や、閉じたまぶたの上を滑る指が、少し震えている。
 それを好もしく思えてしまうくらいには、俺もこいつに絆されちまってるってことなんだろうな。

 落ちてくる唇を受け止めながら、俺の口元は隠しようもないほどに緩んでいた。

 

 繰り返す夏休みは二度とごめんだし、夏が終わることも特別惜しくはない。
 夏だからこそ通った気持ちでも、別に夏でなければこの先を紡げない訳じゃない。


 窓の外から聞こえるツクツクホーシの泣き声が、夏の終わりを俺たちに告げていた。



end.



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