ひとりきりの闇がどれほど暗いか、そんなことはきっと目の前の男よりもずっと知り尽くしている。
 そして、真剣に向き合ってくれる者がいればその闇は決して永遠に続くものではないということも。

 かつて私は、差し伸べられる手を何度も振り払った。
 そのたび、諦めることを知らぬかのように差し出された手があった。
 諦めないでいれば、決まったように見える運命も未来も変えられると教えられた。

 そうして救われた私が今為すべき事は、たったひとつだ。

「…いいか、成歩堂」
 両頬を掴んで、まっすぐに目を合わせた。

 この瞳に宿っていた光を取り戻してみせる。
 私の知る成歩堂龍一という男を、取り戻す。

「きみが嫌だと言っても、私はきみのために尽力する。だが、これは私が勝手にやることだ。そのために私の身に何が起ころうと覚悟は出来ている。きみにも文句は言わせない」

 呆気に取られたようにぽかんと口をあけた成歩堂は、しばらくの沈黙の後肩を震わせてくつくつと笑い出した。
「…おまえ、いい性格になったな」
「それは褒め言葉として受け取っておこうか」
「うん、そうだね」
 軽口の応酬は少しだけ、ささくれ立っていた私の心を和らげてくれた。
 そしてそれは目の前の男にとっても同じだったらしく、溜息をつきつつも柔和な表情を浮かべていた。
「止めてもムダなんだろ、それ」
「ああ、ムダだ」
 検事の私でも、この国で司法制度の頂点に立ちさえすれば出来ることはある。それは私にとって決して不可能ではない。何年かすれば機会も巡ってくるだろう。
「…じゃあ止めない。でも、後悔しても知らないからな」
 呆れるように言い放った成歩堂は、先ほど一瞬見せた表情が嘘のようにまた口の端を歪めた笑みを作っている。

 ここまで来て、私はようやく成歩堂のこの態度が演技であることに気づいた。
 自己犠牲の精神に溢れ、自分のことに他人を巻き込みたがらない。この男はそういう人間だ。

「きみは、不器用だな」
 どれだけ偽悪的に振舞おうと、本質は変わらない。今までと同じ態度や表情が、端々に残っている。
 それが分かってしまう以上、決して器用に本心を隠せているとは言えないだろう。
 私の言葉に隠れた意味を察したのか、成歩堂は驚いたように一瞬目を丸くしてからにやりと笑う。
「おまえほどじゃないと思うけどね」
 それもそうだ。自分の不器用さは嫌というほど承知している。そう言うと、彼はまた笑った。

 それは演技ではない、彼の本当の笑顔だった。

 


「…今回のことは、完全にぼくがうかつだった。ある意味では自業自得なんだ。だから誰にも頼らず自分自身でケリをつけたい」
「それでいいのか」
「いいんだ。幸か不幸か、やるべきことはわかってるしね」
「お得意のハッタリではないだろうな」
「違うよ」
 すぐには行動できないのが痛いところだけど、と添えて、成歩堂は私のほうへ向き直る。
「…おまえの気持ちはありがたいと思うよ。でも手を出さないで欲しい」
「了解した」
 私は微笑を浮かべて頷いた。言い出したら梃子でもきかない頑固さも、この男が元来持ち合わせているものだ。

「だが、私が必要になった時は呼んでくれ。遠慮は要らない。きみが動きやすいようにどんなお膳立てでもする」

 きみが再びその瞳の輝きを本当の意味で取り戻せるなら、私はどんな事でもするだろう。

 

 かつてきみが、私を救うために弁護士の座をかなぐり捨てても構わないと思ったように。

 

 小さく頷いた成歩堂の手を取って、額に当てる。
 神がもしもいるのならば、祈りたい。


 どうかこの男に、せめてもの加護を。


 END.

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