「…俺から話してもいいか」
「はい」
数分の沈黙の後、口火を切ったのはセンパイだった。
頬杖を付いた口元が、ふ、と緩む。
「すまなかったな。ひとりにしちまって」
昔のままのやさしい声。
瞳はゴーグルに覆われて見えないけれど、きっと私の知っているやさしい顔をしているはずだ。
そう思うと本当に切なくて、胸の奥が痛んだ。
「…私も、ごめんなさい…あなたが目を覚ますのを、迎えてあげることが出来なかった」
「いや、チヒロが死んじまったのはチヒロのせいじゃないさ」
センパイはそこで言葉を切ると、頭を下げた。
「…守ってやることが出来なかった、俺のせいだ。すまない」
そう言われることはわかっていた。
だから、会いたくなかった。
このやさしいひとが、これ以上自責の念に苦しむのを見たくなかった。
毒を飲まされて眠ったのも、私が死んだのも、センパイのせいじゃない。
私は、こみ上げてくる涙を必死にこらえて首を振った。
「センパイのせいじゃ、ありません」
「いや、俺のせいだ」
「…違います…貴方のせいじゃ、な…」
こらえ切れなくなった私の喉が、僅かにひく、と鳴る。
少しだけ、センパイが笑ったように見えた。
「…泣いてもいいぜ、チヒロ。今日が"最後"だ」
「…っ、ふ…」
言葉に促されて、ぼろぼろと涙がこぼれる。もっと言いたいことがあるのに、言葉が出てこない。
センパイが私のほうへ指先を伸ばすのが見えた。でもガラスに阻まれて触れることは出来ない。
男が泣くのは、全てを終えたときだけ。それがセンパイの口癖だった。
ならばあの日法廷で涙を流したこのひとは、もう全てを終えてしまったんだろうか。
全てを終えて、もう生きる理由さえなくしてしまったのではないだろうか。
そう考えると、たまらなく苦しかった。
「センパイ、約束…して」
子供みたいにひくひくとしゃくりあげながら、センパイを見つめた。
「なんだ」
「…私の分まで、生きてください。ちゃんと、生きてください…」
滲む視界が勾玉をとらえる。
これを託そうと決めたときよりもずっと強く、私はセンパイに生きて欲しかった。
「このポンコツぶりじゃ、先は長くないからな。約束は出来ねぇ」
「大丈夫、です…それがあれば」
センパイは、私の指差した勾玉を手に取って眺めると、不思議そうに首をかしげた。
「長生きできるお守り、ってワケかい?」
「いいえ」
ゆっくりと首を振る。
「それ以上、です」
だってそれは、私の命そのものだから。
「だから、生きて…」
「…ああ、わかった」
コネコちゃんにはかなわねえ。そう呟くと、降参とばかりにセンパイは両手を挙げた。
「だから、そんなに心配するな」
「…で、も…」
「俺は大丈夫だ。おまえが心配するようなことは、何もない」
ゆっくりと、諭すような声音。きっとゴーグルの奥の瞳はまっすぐに私を見てくれているのだろう。
「…はい」
見抜かれていたんだろうか。
ごしごしと涙を拭う。そんな私を見て、センパイがまた少し笑った。
思えば、私はずっと肩肘を張って来たのかもしれない。
母の仇。センパイの仇。
自分のために、誰かの代わりに、頑張らなきゃと思って生きてきた。
でもそれも、もう終わりだ。
私の役目は今度こそ、本当にすべて終わった。
一瞬だけ、意識が途切れた。はみちゃんの力が弱まってきているのが分かる。
壁にかかった時計を見ると、私がここへ来てからもう1時間近くが経過していた。
「…私、もう行かないと」
「そうかい」
「ええ…これで、お別れです」
「ああ、そうだな…」
少しでも近付きたくて、ガラス板に肩を寄せた。
てのひらを冷たい板に押し付けると、センパイが向こう側から同じようにてのひらを押し当ててきた。
「センパイ」
「どうした」
「貴方が私のいる場所に来る時は、どれだけ離れていても、どれだけ貴方が変わっていても、絶対に見つけて会いに行きます」
「…おっと、コネコちゃん」
センパイの口元が、にやりと笑みの形を作る。きっと、ゴーグルの下では片目を眇めているのだろう。
「そういうのは、男に言わせる台詞だぜ…まあ、アンタらしいといえばらしいがな」
「そういうものですか」
「ああ。だから俺からも言わせてくれ」
笑っていた口元をきゅっと引き締めて、センパイは私の耳元へ口を寄せた。
「チヒロが俺を探し出すより先に、俺がチヒロを探しに行ってやるさ」
「…じゃあ、競争ですね」
「ああ」
くすぐったさに身をすくめる。
これが最後だなんて、嘘みたいだ。
「…顔、見せてください。最後に」
「ああ、いいぜ」
こめかみに手をかけると、センパイはゴーグルを取ってごとりと机に置いた。
「これでいいかい?コネコちゃん」
「…もう、コネコじゃありません」
「…そうだな。悪かった」
くっ、と、喉元で笑う声。
見上げたら、センパイの瞳の中に頬を膨らませた私が映っていた。
やわらかい声。細められたやさしい瞳。
からかうように少し上がった口の端。
それらは全てあの頃と同じ。何一つ変わらない。
私の愛したままの神乃木荘龍が、間違いなくそこにいた。