18 私達のこの一歩


 来客を告げられて、面会室に向かう。
 国選弁護人でもついたのか、はたまたまるほどう辺りが変に気を遣いに来たのかと思っていた俺は、ガラスの向こうに座っていた姿を見て驚いた。
「…おじょうちゃん、ひとりで来たのか」
「はい」
 小さな身体をさらにちぢこませてパイプ椅子に腰掛けた綾里春美は、しっかりと頷いた。
 いつもの珍妙な髪型は結われておらず、子供特有の柔らかそうな髪が肩先で揺れる。
「俺は悪いやつだぜ、ひとりで来ちゃいけねえって誰かに言われなかったかい?」
「…おじさまは、やさしい方です。わたくしにはわかります」
「そうかい、そりゃ買いかぶりだぜ」
 あの寒い朝、カフェオレを淹れてやったことを。震えて不安そうな表情に、在りし日の彼女を重ねて
しまったことを思い出した。
「いいえ」
 綾里春美はゆっくりと首を振った。
「やさしいお方でなければ、千尋さまはこのようなものを託そうとはいたしません」
 ことりと、机の上に勾玉が置かれる。
 見覚えがないはずはない。チヒロがいつも身に着けていた、鈍く光る紫色を俺は凝視した。
「託すって、どういうことだ」
「千尋さまの残されたお手紙に、これを神乃木荘龍さまにお渡しするようにと書いてありました」
「チヒロが…?」
「はい」
 神妙な顔で頷く。
「ですので、お受け取りください。これはおじさまのものです」
「俺が受け取っちまって、いいのか」
「…それが、千尋さまのご意思です」
 どうしてだか涙に潤んだ瞳で、綾里春美は仕切りの隙間から勾玉をこちらへ差し出した。

「…千尋さまは」
 俯いたまま、ぽつりと話し出す。
「どうしてもこれを、おじさまに持っていていただきたかったのです。わたくしにはわかります」
 握り締めたちいさなこぶしの上に、ぽたぽたと雫が落ちる。なぜ泣くのか分からない。俺は少なから
ず動揺した。
「泣くなよ、おじょうちゃん」
「…すみません…」
 ぐしぐしと鼻をすすり上げて、何度も目元を擦る。何度かその動作を繰り返し、綾里春美はひとつ深
呼吸をすると俺をまっすぐに見据えた。
「あの」
「どうした」
 目の前の少女は俺を見据えたまま、予想だにしなかった言葉を口にした。


「今から、千尋さまをお呼びいたします。わたくしはそのために参りました」


「…おい、ちょっと…!」
 俺の言葉を制し、綾里春美はもう一度頬の涙を拭うと瞳を閉じてゆっくりと手を合わせた。すぐにぼ
んやりとした光が彼女を包む。
 "それ"を見るのは初めてではない、それでも、これほどまでに間近で立ち会ったことはなかった。
 幼子の華奢な身体はあっという間に肉感的なそれに変わり、瞳をあけたときにはもう俺のよく知って
いる姿へと変貌を遂げていた。

「……」
「…神乃木、センパイ…?」

 彼女は驚いたようにぱちくりと瞬きをすると、形のよい唇を動かして掠れた声で俺を呼んだ。
「どうして、私…」
 言いながら、胸元の勾玉に触れる。水色のそれを確かめると、チヒロは小さく溜息をついた。
「…はみちゃんね」
「ああ。こいつを俺に持ってきてくれたよ」
 机の上の勾玉を指し示す。
 勾玉と俺を交互に見ると、チヒロは困ったように笑う。その姿は俺の知っている姿よりも少しだけ大人びていて、少し戸惑った。
「はみちゃん、何か言ってました?」
「ああ、アンタを呼ぶために来たとよ」
 そう、と、チヒロが溜息をついた。
「勾玉を渡してくれるだけでよかったのに」
「…俺には、もう会いたくなかったか」
 自分でも意地悪な問いかけだと思った。
 目覚めてからの1年、俺がどれほどチヒロを想い焦がれてきたか。それならば逆もまた然り。
 チヒロは、首を横に振ってくれる。会いたかったと言ってくれる。疑いもせずに、俺はそう思っていた。

 だがチヒロは、はっきりと首を縦に振った。
「…はい。もう、会うつもりはありませんでした」
「チヒロ…」
「だって、私はもうこの世にはいないんです。会えるはずがありません」
「わかってるさ…だが。こうして俺たちは会ってるじゃねえか」
 仮初の姿を俺の前に見せてくれている。俺のポンコツの目でも見えるほど確かに、チヒロはここにい
た。

「でも、会ってしまった…それなら」

 チヒロの唇が小さく震える。

「私は、貴方にお別れを言わなければなりません」

 胸の奥が、音を立てて軋んだ。

「…そうだな、俺もアンタに言わなきゃならねえことがある」

 きっと俺たちはお互いに、ずっと言えずにいた言葉を抱えている。
 一生伝える術のなかったはずの言葉。それを伝える機会を目の前にして、いったいこれは幸運なのか
不運なのか俺には判断することが出来なかった。

 でも、今は進むしかない。


 この先一生かけても歩めるはずのなかった、俺とチヒロの最後の一歩を。


 

 

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