2012年8月27日。ぼくはこの日を一生忘れない。
大学の図書館で勉強して、やっぱりこっちのキャンパスじゃ参考になる資料は少ないなぁ、法学部のあるほうに行けばなんとかなるかなぁ…なんて年かさのおばちゃん司書にボヤいてたら、彼女は「ならいっそ裁判所に行けばいいんじゃないの?」って言い出した。
ぼくがはいもいいえも言わないうちからそのおばちゃんはなにやら電話をかけだして、あーだこーだやっている。
そしてあっという間に電話を切ると、ぼくに向かってばちんとウインクをしてみせた。
弁護士を志して半年。
こうしてぼくは初めて、地方裁判所に足を運ぶことになったのだった。
「…ひ…し、死ぬ…っ」
先輩の先輩から譲り受けたボロボロの自転車は正直乗り心地サイアクで、小一時間の運転に耐え切れるようなシロモノじゃなかった。
これは、下宿と大学の往復以外で使ってはいけない。
ぼくが後輩にこれを譲るときが来たら、そう言ってあげよう。
交通費ケチらなきゃ良かったな、と考えながら、ガクガクする足をなだめラストスパートをかける。
門をくぐって、頭上を見上げた。
「…これが」
地方裁判所。
なんとなくレトロな建物を想像してたけど、現実のそれは近代的な大きなビルだった。
ぜいぜいと息を吐きながら、武者震いのようなものがぼくのからだを包む。
「よし」
ぱん、と両手で頬を叩いて、ぼくは入り口への階段に足を踏み出した。
「あ、あの…見学の連絡を入れた勇盟大学2年の成歩堂といいますけど」
「はい、少々お待ちくださいませ」
ドキドキしながら受付に名前を告げると、特に訝しがられることもなく話が進む。
…何者なんだ、あのおばちゃん。ただの司書じゃないだろ絶対。
すぐ目の前のゆったりしたソファにからだを沈めて、すっかりガタガタになった足をさする。
空調は寒いくらいにきいてて、ぼくの火照ったからだを冷ましてくれた。すこしだけ人心地がついて、あたりを見回す。
地味なスーツ姿の人たちが行き交う。みんな、それぞれ書類を携えて足早に去っていく。なんだかピリピリした空気だ。
…ぼく、ものすごーく場違いじゃないか?
自分の姿を見直す。ヨレヨレのTシャツにジーンズ。いかにも学生ですと宣伝して回ってるような風体を、時々物珍しそうにちらりと眺める人がいる。
そりゃそうだろうなぁ。もしぼくがあっちの立場だったら絶対見ちゃうもん。
ぼくはもう一度、見るとはなしに人々の群れに目を向ける。
モノトーンの群れに一瞬、鮮やかな赤が過ぎった。
顔なんか見てない。っていうか見えなかった。
それでもこの胸を支配する確信めいた予感はなんだ?
そうだ、ここは裁判所なんだ。いたっておかしくないんだ。
…あいつが。
もう一度ぼくは赤い色を探す。とっくに見えなくなっていた。それでも、がむしゃらに動き回れば見つかるだろう。
確かあっちのほうに向かった、そう思って腰を上げた矢先、さっきの受付のひとがぼくのほうに向かって歩いてきた。
「成歩堂さん、お待たせいたしました。ご案内します」
…ああ、もう少し早く、あの人影に向かい駆け出していれば。
ぼくは気づかれないように、そっとため息をついた。
新聞が、昨日ぼくが被告人として出廷した裁判の結果を伝えている。
あれから半年たった今になって、思う。
もしぼくがあの日、形振り構わずに御剣かもしれない人影を追っていたのなら。
資料室には行かずに、ちいちゃんとも会うことがなかったのなら。
ぼくにペンダントを預けることが出来なかった彼女は、一体誰にそれを押し付けたのだろう。
…いや。そもそも、誰かに渡すことが出来たのだろうか?
確か地下にはカフェテリアと資料室、そしてトイレくらいしかなかった。
人のいない埃まみれの資料室で、自分の罪を押し付ける相手を探して彷徨う彼女の姿を想像した。
そして、紙面に繰り返される「美柳容疑者」の文字をなぞる。
…忘れるんだ。もう。
心に浮かんだちいちゃんのはにかむような笑顔を、ぼくは首を振って払い落とした。