15 君に負けないように
もうすぐ、成歩堂と再会して何度目かの春がやってくる。
「…局長…今、なんと」 「特別修習生として、ベルリンへ行ってもらいたい。期間は1年だ」 これが辞令だと、検事局長は机に1枚の紙をすっと置く。 そこには見間違いようもなく、自分の名前が記されていた。 「ベルリン、ですか…」 「君なら言葉で困ることもないだろう。しっかりと勉強してくるといい」
間違いなく私の、そして検事局の将来のための辞令、そんなことは分かっている。 でも手放しには喜べない。どんよりとしたものが、心中で渦を巻いている。
それらを何とか隠して一礼をすると、私はその紙キレを受け取った。
年度末、個人事業主はどこもてんてこ舞いだ。 ご多分に漏れず、成歩堂法律事務所も扉を開けた瞬間から上を下への大騒動だった。
「なるほどくーん、この領収書、日付がない!」 「えええええ!!?ちょ、それどこの店?但し書きなに?」 「えっと…駅前のドラッグストアで洗剤と掃除道具…だから備品費か。しめて1880円」 「…真宵ちゃん。そこの日付印でテキトーに押しちゃって。そうだな、10月のアタマくらいで」 「そ、そんなことしていいの!?」 「だって、他にどうしたらいいんだよ!」
「…そういう時は、店に問い合わせてみるといい。店舗控えがあれば調べてもらえるかも知れんぞ」
今の今まで私に気づいていなかったのか、成歩堂と真宵くんがそろって顔を上げた。
「…や、もうホント助かったよ御剣。ありがとう、手伝ってくれて」 ことりと目の前に置かれたティーカップを口元へと運び、ここの主自らの淹れた茶を味わう。真宵くんは既に帰宅していた。 「一気にやるからそのようなことになるのだ、もっと日頃から整理しておけばよかろう」 「それができたら苦労してないよ」 こう見えても結構忙しくなってきてるんだから、と、目の前の男は屈託なく笑った。 「いっそ、経理担当でも雇えば楽になるかなって思うんだけどね…とりあえずは、真宵ちゃんが手伝ってくれるしまあいいかなって。人を増やして、人件費払えるかってのも微妙なところだし」 「ふム…まあ、ここはきみの事務所だ。きみのいいようにしたらいい」
しんと静まり返った事務所の中、ふたりが茶を啜る音だけが響く。
「…で。御剣」 「なんだろうか」 「何か、ぼくに話があって来たんだろ?」 「……!」 驚いて、顔を上げる。 成歩堂はさっきまでの笑顔ではなく、どこか真剣な面差しで私のほうをまっすぐ見つめていた。
「分かってしまうのか、きみには」 「伊達に親友やってませんから」 少しだけ微笑んだ成歩堂が、僅かに首を傾けておどけたポーズを取る。 "親友"という響きに、胸がちくりと音を立てた。
「…司法修習生としてドイツへ渡ることになった。期間は1年だ」
深呼吸をして、一気にそう告げる。 成歩堂は、大きく目を見開いて私を見つめた。
「また、行っちゃうんだ…」 「…だが、この辞令をつき返してもいいと思っている。もうしばらくこの国にいたいのだ、私は」 「そうなの?」 「ああ。まだ、真宵くんたちや神乃木氏のことが心配だ。結末をこの目で見届けたい」 それも間違いなく本心だった。でも、一番の理由は言えない。言ってしまえば、今のこの関係は壊れてしまうだろう。
「でもそれ…断っていいものなの?」 「良くはないだろうな」 手にしたカップから、既に冷め切ってしまった中身を飲み干す。 「自分でも分かっているさ。これはとてもいい話なのだと…だが、私は弱いな。皆のことを言い訳にして、気の向かない仕事から逃げようとしているのかもしれない」
あの夜のことを思い出す。 遠く離れた国で、今すぐにでも駆けつけたいというのにそれが叶わない、言葉では表現できない歯がゆさと悔しさ。 あの時にこの街にいたなら、すぐに傍に行くことができたのに。
…もし私がこのままドイツに渡り、再びあのような出来事が起きてしまったとしたら。
また私は、あの暗闇に取り込まれてしまうだろう。
成歩堂は少し考えるように腕を組んでうつむくと、「それは違うと思うよ」と呟いた。 「ぼくは弱いとは思わない。だって、それだけみんなのことを大事に思っていてくれるっていうことだろう?それって、ほんとに大切なことだよ」 「そ、そうか…」 「そうだよ」
肯定されて、安堵する。 同時に、嘘を重ねていることへの罪悪感が心を締め付けていく。 「それにさ」 成歩堂は、さらに言葉を続けた。
「ぼくのことも想ってくれてるんでしょ?だから、ここを離れたくない…違う?」
予想もしなかった台詞に、一瞬で顔が朱に染まる。
「な…ッ!な、なぜ!?」 「…カマかけてみて、正解だったかな」 成歩堂が立ち上がって、私の横のソファに腰掛ける。 至近距離で見つめられて、まるで思春期の少女のように胸が高鳴った。
「御剣さ、ウソつけないでしょ。わかるよ。病院に来てくれたときから、どっか違ったもん」 「む、ム…」 「でもぼくは、ずっとウソついてきた。ずっと隠してきた。前に真宵ちゃんとおまえが話してて、ぼくが機嫌悪かったとき、あったでしょ」 「あ、ああ…」 「…あれ、妬いてた。真宵ちゃんに。みっともなさ過ぎて言えなかったよ」 頭をカリカリと掻いて、照れたように笑う。 そして口をぐいと一文字に結ぶと、私の肩を掴んだ。 頬が熱い。目の前の男を見つめる。彼の頬もまた、朱を帯びていた。
「…好きだよ…御剣は?」 「わ…私も…その、す…んッ!」
最後までは言わせてもらえなかった。 かさついた成歩堂の唇が、私のそれにそっと押し当てられる。
「…好き、だ…一緒に、いたい」
ゆっくりと離れてゆく。掠れた声で、少し触れ合ったまま想いを告げた。 「うん。知ってる」 「ズルいな、君は」 「うん、そうかもしれない」
額をこつんと押し当てて、微笑みあう。 もう一度、唇が触れる。さらにもう一度。 そんな甘い時間をしばらく過ごした後、成歩堂が急に真剣な表情を浮かべた。
「…行きなよ、ドイツ」
「な…!」 抗議の声を上げようとした私の口元に、成歩堂がそっと人差し指を押し当てた。 「ちょっと、黙って聞いてて」 小さく頷いて、私は成歩堂の言葉に耳を傾けた。
「ぼくはさ、好きだからこそ、御剣には御剣らしい道を選んで欲しいんだ」 それは私も同じ気持ちだ。成歩堂には成歩堂らしい道を歩んで欲しい。 「何を心配して、どうして迷ってるかはわかってる…っていうか、心配の種作ったの、元を正せばぼくだしさ」 あの暗闇を思い出す。もう、あそこへは戻りたくない。 「もう無茶はしないよ。ぼくはおまえの前から黙って消えたりしない」 その言葉に、かつての自分を振り返る。私はどれだけの絶望をこの男に与えたのだろう。
「…死なないよ、絶対。おまえより先には死なない」 「そんなこと、絶対などはありえな…」 「あるよ。約束する」
差し出された小指に、私が成歩堂に対して抱く気持ち以上のものをひしひしと感じる。 だが私も負けない。負けていられない。
成歩堂が、私を選んだことをいついかなる時も誇れるような、そんな人間であろうと思った。
私は小指を差し出し、成歩堂の指にそっと絡めた。 「…わかった」 「だから、行っておいで。ちゃんと待ってるからさ」 成歩堂が微笑む。私も微笑み返す。
「ああ。行ってくる」
もう、微塵だって迷いはなかった。
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