断続的なパルスの音が聞こえる。
それが自分の鼓動だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「病院、か」
…ということはつまり、俺は生きている。そういうわけだ。
どうやら、あのコネコちゃんのおイタはそう手酷いものじゃなかったらしい。
腕や足を動かしてみる。少し軋む感じがあるものの、難なく動く。
身体を起こして、周囲を見回す。さっき感じた強すぎる光が目を眩ましたのか、全てのものはぼんやりとしか見えない。
そんな光景にデジャブを感じて、俺は目を閉じると再び仰向けに転がった。
「…チヒロ…」
夢の中で、彼女は泣いていた。
「もうここにはいられない」と泣いた。
それでも俺に向かって笑ってみせた最後の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
あまりにも荒唐無稽で、夢でしかありえない光景。
だというのに、最後に抱きしめたぬくもりも感触も、すべてが腕の中に残っている気さえする。
「なんだったんだろうな…アレは」
そういえば、と目の前に手を翳す。そこには当然何もなく、すぐに手のひらが額とまぶたに触れた。
しばらくして見回りに来た看護師らしき人影が、俺の様子を見て大慌てで飛んでいった。
3分もしないうちに医者らしき男が飛んできて、俺にいくつかの説明をしてくれた。
曰く、俺は毒を飲まされて、昏睡状態にあったということ。
毒には後遺症がいくつかあること。これから一生、通院加療が必要なこと。
そして、俺が飲まされた毒は致死量で、目覚める確立はゼロに等しかったこと。
「クッ…そいつは幸運だな」
「そうですね、もはや奇跡としか言いようが…」
そして、すぐにいくつか質問が飛んできた。名前、職業、生年月日。俺はそれらに淀みなく答える。
医者は安心したように息を大きくつくと、すらすらと今後の生活上の注意を話し始める。
「…記憶の混乱等はとりあえず見られないようですが、5年以上昏睡状態にあったわけですから…」
「ちょっと待ってくれ、今、なんて」
血の気がざっと引く。何か今、とんでもないことを聞かされた気がする。
「神乃木さんは、5年以上昏睡状態にありました。今後、何も起こらないという保障はありません」
「…冗談だろ…」
目を閉じて、天井を仰いだ。
5年。それほどまでに長い長い時間、俺は間抜けにも眠っていたというわけか。
嘆息したまま動かない俺をどう思ったのか、医者はそこで話を切り上げてくれるようだった。
「先ほど、貴方の入院時に付き添われていた方に連絡をしました。すぐにこちらにいらっしゃるそうです」
「ああ」
チヒロが、来るのか。
その瞬間俺の脳裏に浮かんだのは、あの夢の悲しげな泣き笑い。
なぜだか、あの言葉が現実のような気がしてならなかった。
数十分後、俺の病室に息せき切って現れたのは星影の爺さんだった。
「か、神乃木、君…!」
「爺さん、あんまり走ると血圧上がるぜ」
「本当に、目覚めたというのか…奇跡だ…」
「まあ、こんなナリだけどな」
伸び放題になっていた色素の抜けた髪をかきあげると、ぼやけた瞳で爺さんを見る。
白い髪、極端に落ちた視力。これらも、医師から聞かされた後遺症らしかった。
「…それでも、生きているというだけで素晴らしいことぢゃよ。命がなくなってしまっては、何にもならん」
爺さんが、辛そうに瞳を伏せる。俺は無言で、その先を促した。
聞きたくなかった。それでも、きっと俺はそれを聞かなければならない。
さんざんうなり声を上げた後、爺さんは意を決したようにひとつ頷いた。
「…千尋クンがな。一昨年、亡くなったよ」
鉄パイプか何かでしたたかに殴られたような衝撃。
同時に、どこか覚悟を決めていた部分もあった。それはきっと、あの夢のせいで。
それでも、すぐにはいそうですかと納得できるわけがない。俺は気づいたら、爺さんの胸倉を引っつかんでいた。
「死んだって、なんで!」
「…殺されたんぢゃ…彼女がずっと追っていた男に、の」
爺さんの声が、急に遠ざかる。目の前が真っ暗になった。
…守ってやれなかった。
毒なんかに冒されて、のうのうと眠りこけてやがったのか、俺というヤツは。
もう、ここにはいられない。
夢のなかのチヒロの言葉が、今になって心に重く響く。
違う。アレは、夢なんかじゃない。
チヒロが、最後の最後にこの不甲斐ない男に別れを告げに来てくれたのだ。
俺には、そんな資格なんかないのに。
爺さんは俺を気遣いながらも、この5年間の出来事を掻い摘んでいろいろと話してくれた。
そして、長居は疲れるだろうと話し終わるとすぐに病室を出ていった。
最後に、あまり気を落とすな、と言い置いて。
「…ソイツは無理ってもんだろう、爺さん」
誰もいない病室で、ひとりごちた。
爺さんの話じゃ、チヒロを殺した男は有罪判決の末服役中。
そして俺を殺そうとした美柳ちなみはチヒロが有罪を獲り、先日、極刑が決定したという。
俺は、俺が生き返った意味を考える。
俺自身の仇は、チヒロが取ってくれた。
その証拠だという、古ぼけたしわくちゃの新聞紙を握り締める。
チヒロの敵討ちは、俺の知らない誰かが俺の知らないうちに済ませやがった。
いつかチヒロに話した夢も、一人で叶えたいものではない。
「…なんだ、何もねぇじゃねぇか」
生き返ることが出来ても、俺には何も残ってはいない。
このポンコツの身体を引き摺って、一体これから何が出来るというのか。
渇いた笑い声が喉から漏れた。同時に、暖かいものが頬を伝う。
頭を掻き毟る。声にならない咆哮をあげる。
この痛みを、全てが詰んでしまったような絶望を消す術があるなら、俺は悪魔にだって魂を売るだろう。
いっそ生き返らなければよかったとさえ、思った。